それは、守るべきを持たぬ姿勢だと思う。
私がタイの寺で生活をし、そしてサーマネーン(沙彌)や比丘として出家生活を送り、感じたことのひとつだ。
出家とは、在俗での生活を捨て、髪を剃り、食は乞食(こつじき)を糧とした生活を送ることである。
そして、227の戒律を守りながら日々を送らなければならない。
身につけるもの、所有できるものなど、戒律の中で細かく定められている。
例えば、比丘が所有することが許されているものは、袈裟などの3種類の衣、托鉢をするための鉢、飲み水から虫などを除くための水こし器、針や糸などである。
袈裟などの3種類の衣とは、日本のような儀式のための高価な衣装ではなく、ごく簡素なもので、この3種類の衣で実際に生活をする。
また、鉢は、この鉢で托鉢をする。森の寺などでは、同じ鉢を使って食事をする。
ちなみに、水こし器や針や糸などは、現在ではほとんど使うことはないが、現在でも比丘の持つべきものとして出家する際には鉢や衣とともに一緒に贈られる。
このようにごくわずかな持ち物しか所有が認められていない。
しかも、簡素なものである。
生活必需品・・・。
あれも必要・・・これも必要・・・と思うかもしれないが、必要最低限のものは全て寺にある。
生活に必要なものは寺のものを使用する。あるいは寺から借りるので、買ったりする必要はない。
寺を出る際には返却をする。
とはいっても、生活をしていくうえで不自由はしないのだろうか・・・?
そう思われる人もいるはず。
ところが、実際に出家の日々を送ってみると、意外にも生活必需品であると思っていたものが、実はそうたいして必要ではなかったことに気づかされる。
とはいっても、生活をしていくうえで不自由はしないのだろうか・・・?
そう思われる人もいるはず。
ところが、実際に出家の日々を送ってみると、意外にも生活必需品であると思っていたものが、実はそうたいして必要ではなかったことに気づかされる。
むしろ、生活必需品であると思い込んでいるにすぎなかったことに気づく。
あの服、この服・・・と、自己を着飾るためのさまざまなファッションが私たちの目を惹くが、出家者の衣服は簡素な衣のみ。
あの服、この服・・・と、自己を着飾るためのさまざまなファッションが私たちの目を惹くが、出家者の衣服は簡素な衣のみ。
寺によって衣の色が異なることはあるが、基本的には、みな同じ衣をまとう。
着飾る必要性は全くない。
おいしそうな食べ物、贅沢な食べ物・・・食べることは日々の楽しみのひとつでもある。
着飾る必要性は全くない。
おいしそうな食べ物、贅沢な食べ物・・・食べることは日々の楽しみのひとつでもある。
しかし、出家の生活では、日々の食物は托鉢で得たものを食する。
布施をされたものを食するのみ。
過度に食べる必要性はない。
身の回りを取り囲む家具の数々・・・身の回りにあるものとは、基本的には必要なもののはず。
身の回りを取り囲む家具の数々・・・身の回りにあるものとは、基本的には必要なもののはず。
しかし、よくよく思えば、これがなければ不便ということはあったとしても、生命が脅かされるというようなものはなにひとつない。
例えば、テレビ・・・テレビは、ほとんどの人が毎日見ているものかとは思うが、見なくても特に生活ができないということはない。
パソコンもまた現代社会ではなければならないもののひとつである。
仕事もパソコンがなければ成り立たないし、今、このようなブログで紹介しているこの場も成り立たない。
しかし、パソコンもなければ生きていけないというようなものではない。
なければないで何とかなるし、まして生命にかかわる存在ではない。
最近の若い世代は、命の次に携帯電話が大切だと言うらしいが・・・携帯電話もまた現代社会では仕事でもプライベートでも必要不可欠なものである。
最近の若い世代は、命の次に携帯電話が大切だと言うらしいが・・・携帯電話もまた現代社会では仕事でもプライベートでも必要不可欠なものである。
しかし、携帯電話もなければないでまったくもって構わないものである。
余談であるが、タイも日本と同じで携帯電話の普及が著しく、多くの比丘が携帯電話を持っている。
余談であるが、タイも日本と同じで携帯電話の普及が著しく、多くの比丘が携帯電話を持っている。
当然、2500年前のインドに携帯電話があるわけがなく、戒律にもそのような記載がないため、携帯電話を持つことに関しては直接的な戒律違反ではない。
よって、携帯電話を持っている比丘がいるわけであるが、このあたりは文明の弊害を感じさせる。
しかし、持ち込みを禁止している寺も多く、在家者でも寺に滞在を希望する者は持ち込めなかったり、電源を切るように指示している寺も多いという。
このように身の回りにあるものは、なければないで問題のないものも多い。
それらのものを手に入れようとし、望み通り手に入れたのならば、それらがなくならないように必死になって守ろうとしているのが私達の生活に他ならない。
ものを所有するようになれば、それを維持するために守らなければならない。
このように身の回りにあるものは、なければないで問題のないものも多い。
それらのものを手に入れようとし、望み通り手に入れたのならば、それらがなくならないように必死になって守ろうとしているのが私達の生活に他ならない。
ものを所有するようになれば、それを維持するために守らなければならない。
維持しようと思うことから様々な苦しみが生まれる。
その苦しみが自己を見つめるためには妨げになってしまう。
守るべきを持たぬために所有を禁じているのであるとも言えるだろう。
所有するものがないということは、守るべきものがないということである。
守るべきを持たぬことで、背負ってきたものが少し軽くなったようだ。
出家とは、言うまでもなく仏教を体得するための生活空間だ。
出家とは、一言で表現すれば、シンプルライフ。
守るべきを持たぬために所有を禁じているのであるとも言えるだろう。
所有するものがないということは、守るべきものがないということである。
守るべきを持たぬことで、背負ってきたものが少し軽くなったようだ。
出家とは、言うまでもなく仏教を体得するための生活空間だ。
出家とは、一言で表現すれば、シンプルライフ。
シンプルライフとは、守るべきを持たない生活である。
足るを知る生活。
足るを知る生活。
これらを自分のものとすることが出家生活の第一歩なのであろう。
ところが、悟りを開かぬ限り「所有欲」はつきまとう。
ところが、悟りを開かぬ限り「所有欲」はつきまとう。
守るべきを持たぬということは、突き詰めていくと実際には非常に難しい。
しかし、「守るべきを持たぬ姿勢」を知ることは仏教の肝要な部分なのではないかと私は思う。
守るべきを持つということは、どれだけの苦悩を自分で作り出し、背負い、増大させて、自分自身を苦しめているのだろうか。
(『守るべきを持たぬこと1』)
しかし、「守るべきを持たぬ姿勢」を知ることは仏教の肝要な部分なのではないかと私は思う。
守るべきを持つということは、どれだけの苦悩を自分で作り出し、背負い、増大させて、自分自身を苦しめているのだろうか。
(『守るべきを持たぬこと1』)
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