タイでは、少し仲良くなったり、意気投合するとその場で一緒にご飯に誘ってくれたり、自分の家に招待してくれたりする。
タイではよくある風景である。
なんとも日本では考えにくいことではあるが。
私のことを気に入ってくれたのか、その比丘の故郷であるイサーンの実家まで連れて行ってあげようと誘ってくれた。
少々戸惑ったが、お言葉に甘えさせていただくことにした。
インド帰りのその比丘とともに夜行バスに乗る。
タイでは、バスの交通網が非常に発達していて、網の目のようになっている。
日本では考えられないような田舎の町とバンコクとがバスの路線を通じてつながっている。
深夜のバスに揺られる。
一体どこのあたりを走っているのかもわからない。
寝たのか、寝ていないのか・・・夜行バスの中で浅い眠りに就く。
朝、町に着く。
町ごとに数人ずつ降りて行く。
「さぁ、ここで降りるよ。」と促され、一緒に降りた。
降りたった町は、タイのどこの町なのか・・・わかっているのは、夜行バスの旅を共にしたその比丘の故郷・イサーンのどこかということだけだ。
その比丘の出家前に過ごしていたという実家のある村に連れて行ってもらった。
村では大歓迎であった。
おそらく、インドの大学での留学を終え、帰国してきたということを村の人々達は知っていたのであろう。
あたたかく出迎えられている様子だ。
インドから持ち帰ったお土産らしい小物を村の人々に配っていた。
行ったことのないインド、見たこともないインド、そしてブッダの故郷としてタイの国の誰もが知っている国・インド・・・土産話に花が咲いているようであった。
そして、その比丘の実家へ招いてもらった。
卒業証書を見せてもらった。
きちんとした額に入った立派なものだ。
「ここが私の実家だから、ゆっくりとすごしていきなさい。」
と、そのように言ってくれた。
家の奥のほうからひとりの老人が出てきた。
その老人を私に紹介してくれた。
「こちらは私の兄です。」
「こんにちは。私は日本から来た者です。」
と、挨拶をすると、その老人は、
「こちらへ来なさい。」
その老人は、家の敷地の端っこのほうにある小さな庵のような、小屋のような建物のほうへ連れて行ってくれた。
どうやらこの簡素な小屋がこの老人の居室のようである。
日本語で言う『庵』という言葉がぴったりの建物だ。
部屋の奥の方には仏像が見える。
仏壇だろうか。
「ここが私の部屋です。水でもどうぞ。」
「ありがとうございます。」
「あなたは何をしにタイへ来たんですか。」
「私は仏教の勉強のために、出家をするためにタイへきました。しかし、事情がありまして還俗しました。そして、これから日本へ帰ります。本当は還俗したくなかったのですが、とても残念です。」
「そうですか。私は以前は、住職をしていました。・・・私も還俗しました。
私の弟は、インドの大学を卒業して学位を取ったそうだが、私はあまり興味がないね。
今は、こうしてここで暮らしている。薬草を育てて、薬を作っているんだ。」
そのように言って、製造途中の薬草の入った壺や瓶を見せてくれた。
住職までして還俗をしたのか・・・なぜ還俗をしたのか、どうして比丘として住職を続けなかったのか。
「ここが私の部屋です。水でもどうぞ。」
「ありがとうございます。」
「あなたは何をしにタイへ来たんですか。」
「私は仏教の勉強のために、出家をするためにタイへきました。しかし、事情がありまして還俗しました。そして、これから日本へ帰ります。本当は還俗したくなかったのですが、とても残念です。」
「そうですか。私は以前は、住職をしていました。・・・私も還俗しました。
私の弟は、インドの大学を卒業して学位を取ったそうだが、私はあまり興味がないね。
今は、こうしてここで暮らしている。薬草を育てて、薬を作っているんだ。」
そのように言って、製造途中の薬草の入った壺や瓶を見せてくれた。
住職までして還俗をしたのか・・・なぜ還俗をしたのか、どうして比丘として住職を続けなかったのか。
その事情のほどはわからない。
私は、あまりに澄み切ったその老人の表情に、還俗した理由をたずねることをしなかった。
いや、たずねられなかったのだ。
還俗した私。
還俗した私。
還俗したその老人。
妙な立場の共通点に言葉が出なかった。
しかし、このような生き方も仏教だと感じた。
心軽く、何ものにもとらわれることなく生きる姿。
住職まで勤めあげてきたくらいの人であるから、おそらくそれなりの期間を寺で過ごし、出家生活が人生の大きな位置を占めていたであろうその老人。
還俗後も立派に仏教的人生をその老人に感じた。
すでに黄衣は着ていない。
もう比丘ではないが、それでもできる生き方。
日本語で言う『清貧』という言葉がしっくりとくるような気がする。
なにかを羨むことなく、なにかを貪ることもない生き方。
そして、シンプルなその生活。
仏教とは、シンプルライフの実践だと思う。
森の寺や瞑想修行のページでも紹介させていただいた。
まぎれもない仏教の生活。
私にはその老人の姿がそのように見えた。
在家者であっても、こんな生き方もできるんだ・・・。
『ひっそり』と生活しているのではない。
『おだやかに』生活をしているその姿。
人の顔には心が現れる。
人の顔には生き方が現れる。
それは年をとればとるほど現れる。
ポーカーフェイスという言葉があるが、私はポーカーフェイスなどということは、よほどのプロの詐欺師くらいにしかできない芸当だと思っている。
人の心は顔に現れるものだ。
こと細かにその老人の生活についてを聞くことはしなかった。
ゆえに、今、ここでその老人の生活を細かく紹介することができない。
しかし、その老人のその顔から、どこか満たされた、穏やかな日々を過ごしているであろうことがひしひしと伝わってきた。
私は、はたして日本に帰国して、こんなにも穏やかな顔で日々を送ることができるのだろうか・・・
これから日本へ帰ろうという私。
そんな私にこんな出会い・・・不思議な出会いであった。
(『イサーンのある老人』)
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