タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2012/06/07

死体の写真と煩悩

☆ご注意・・・この記事は、修行に関することを紹介させていただいています。少々過激と思われる事柄もありますが、タイという風土の中で、比丘の修行法のひとつとして認められているということ、現在でも真摯に実践されているということを紹介させていただいているものです。佛教を深くご理解のうえでお読みいただくようお願いいたします。なお、日本において推奨するというものではありません。これらの点を前提として、自己責任のもとでお読みください。



タイの瞑想センターや森の寺・修行寺などには、よく死体の写真が飾ってある。


腐りかけた死体の写真
血まみれの死体の写真
腹部を開いた死体の写真・・・


これらは一体何のために飾られた写真なのだろうか?

日本では全くあり得ない光景だ。

もし、日本でこのような写真を飾っていたら、それはまぎれもなく「狂気」である。

しかし、タイでは狂気ではなく、「不浄観」のひとつとしてこのような写真が飾られている。


バンコクにある仏教書籍の専門店にも不浄観のための写真集(といっても小冊子であるが)が売られている。


その写真集の内容はといえば・・・


体が開かれて内臓が見える写真
内臓が取り出されている写真
皮が剥がれている写真
死体が火葬されている写真
骸骨となっている写真


いかにも気持ちの悪い写真ばかりであるが、この写真集では生きている者が死に至り、骨となっていくさまを視覚化している。


写真とともに仏教に関連した言葉を織り交ぜた解説が添えられている。



「人生とはなに?」

「何をするために生まれてきたの?」

「阿羅漢となった者は、痛みを痛みとしてとらえない。
ゆえに痛みを感じない。」

「阿羅漢となった者は、快楽を快楽としてとらえない。
ゆえに快楽を感じない。」



このような言葉が添えられているのだ。

こうした写真集が仏道修行のためのものとして仏教書籍の専門店に売られている。



寺にこれらと類似した写真が飾ってあるということは、このような人間の生き様や人間の姿をしっかりと心に留め、わが身や人間そのものを客観的に観察し、そしてわが身もまた写真のようになる身であり、その写真となんら変わることのない身であるということを忘れないために常日頃から目に見える形で示されているのだ。



私が自身の瞑想修行の体験で一番大きかったことに性的な高まりがある。

出家生活の中では、何度も性的な高まりとそれを抑える苦痛に出会った

修行生活の中で出会う、そのような時のためにも、よく見える場所にこのような写真が飾ってあるのだろう。

しかし、実際にはそうそう簡単に暴れ回る心はおさまるものではない。


心は思い描いた通りにはいかないものなのだ。

心は暴流の如く、荒れ狂う濁流のようだ・・・。


そんな腐りかけた死体に対してでも妄想が浮かび、抱きたいと感じた瞬間がある。

高まる性的快楽を得たいと思う欲望と、それを抑えて消し去ろうとするができない苦しみ。
ただただ耐えるしかなかった。


のちに、ある師から言われた。



「それは、まだまだ自分自身への観察とその死体への観察が足りなかったんだ。」



と。


大切なのは、そのように感じたことは、ただ単に感じたこととして受け止めることである。

そのような感情に巻き込まれて、さらに感情を増幅させてしまわないことである。

そして、単なる妄想として、その場で手放してしまうことである。


なかなか容易にできることではない。

しかし、日々のトレーニングを積み重ねていくことこそに意義がある。


寺のお堂の中・・・ひときわよく見える場所に飾られた死体の写真は、人間の生き様と自分の人生を、そしてやがては死にゆく存在としてのありのままの人間の姿と自分の中に蠢く煩悩との対面を『死』というものを直視することで語ってくれているのかもしれない。



関連記事:『死を直視する ~不浄観~』



(『死体の写真と煩悩』)



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7 件のコメント:

body_mind さんのコメント...

死体写真ですか・・・やはり・・・

昔、「大念住経」を読んで死体写真を探しました。無くて結局、連合
赤軍リンチ殺人事件の被害者の掘り起こされた顔はぐちゃぐちゃの白
ろう化した死体写真を拡大コピー、カンボジアのポルポト派の虐殺犠
牲者の骸骨の集められた写真を拡大コピー(これは今でもトイレに張
ってあります)、比較的リアルな骸骨の貯金箱二個所有。時々、車の
リアウィンドウに積んで走ったりしたことあります。

入出息念に挫折してますので安全の為、不浄観は拡大コピーを部屋の
あちこちに張ったりした程度。代わりにdvattiṃsaならブッダゴーサ
先生言われるように唱えるだけなら日本語で、パーリ語でもう何十万
遍唱えたことか。今回記事を読んで改めて不浄観少しやって見ました。
そして少し効果を感じましたのでネット上で死体画像収集少々。死体
写真集注文入手済み。イマイチでしたが・・・。
パソコンならスライドショーという手もありますか。気持ち悪いです
が。殺人死体や事故写真等は少し状況を考えてしまいそうで、もう少
し普通の死体、普通に??腐った死体写真がないかな。
そういえば、昔、知人から借りたものをコピーしておいた人体解剖の
DVDがあった。日本テーラワーダ仏教協会関連でゴータミー精舎日
記にアヌラー尼提供の「死体の観察(不浄観)ポスター」がWEB上に
あったので早速拡大コピー印刷。気持ち悪さが少し足りない感じです
ね。
この記事、私には参考にまた刺激になりました。

Ito Masakazu さんのコメント...

コメントをいただきましてありがとうございます。

タイでの出家の中で不浄観の機会に巡り合うことができたのは、とても幸運だったと思っています。やはりタイにおいても仏道の修行のためとはいえ、人間の死体の解剖現場にはなかなか立ち会えるものではありません。また、日本では容易に目にすることができないような写真の数々に『仏道修行』として触れることができたのは幸運でした。
しかし、不浄観によって何を得られたのかと問われると、はっきりとは答えることができず、挫折感さえ覚えています。

ひと皮剥げば、目の前にある「死体」と「美しい女性」が全く同じであること。
ひと皮剥げば、目の前にある「死体」と「この私」が全く同じであること。

ひとえに好みの女性を美しいと見るのも、私は死体にはならないと見るのも、たんに私の主観であり、思い込みであるのです。
そのようなことくらいは、もちろん頭ではわかっているのです。が、全くわかっていない自分に気づかされました。

そう、人間、なにごとにおいても、どこまでいっても『他人事』でしかないのです。

その『他人事』の最たるものが『死』だと私は思っています。
『死』とは人生の中で唯一確実なこと、生まれたその瞬間から確実に体験するものだと断言できる唯一のものが死なのです。
しかし、やはり他人事にしか思っていません。明日は必ずやってくると思い込んでいます。死をおそれる気持ちもあります。

これらを越えていない不浄観の意味とは一体何だったのだろうか・・・と、また苦海の中に沈んでしまいます。情けない気持ちでいっぱいです。

強いて言えば、私の感じた不浄観の意味とは、自分の煩悩の根深さと、どこまでいっても『他人事』ととしか受け取れないのが『自分』だと見せつけられたことでしょうか。

私も、この段階にとどまらず、繰り返し観察し続けていきたいものです。

徹底した不浄観を修しておられる姿勢に尊敬の念をいだきました。

匿名 さんのコメント...

てく様のブログの読者でございます。私はいつかタイやミャンマーなどの国でテーラワーダ僧として出家したいと思っています。そこでいくつか質問させて頂いてよろしいでしょうか。
 
①一時出家ではなく、一生の出家をしたいのですが、絶対必要なものは何でしょうか?一生の出家の場合、お布施などいくらお寺に寄付すればいいのでしょうか?

②出家する時には、準備などで40代か50代、もしかしたら60代になるかもしれませんが、年齢制限などはありますか?

③出家の方法は何でしょうか?行きたい国のお寺に行って、出家したい、と伝えればいいのでしょうか?

④日本人が外国のお寺で一生の出家をするのは手続きなどで難しいですか?

よろしくお願い申し上げます。

Ito Masakazu さんのコメント...

コメントをいただきましてありがとうございます。そして、『タイ佛教修学記』をお読みくださいましてありがとうございます。

さっそくですが、ご質問の回答です。

①絶対に必要なものは特にありません。出家ですから、得度を境に世俗の生活を離れることになり、その後の基本的な生活全般は全てお寺が面倒をみてくれることになります。
あえて言うならば、「健康な体」と「パスポート」でしょうか。
タイでは、一般的には出家者の家族、ないしは出家者の支援者がお寺にお布施をし、出家に必要な物品(衣や鉢などの出家セット)をそろえてから出家をさせます。
私の場合は、お寺に全ての面倒をみていただきました。また、家族にあたる支援者は、住職の知人がその役を引き受けてくれました。
タイでは、人を出家させることは最高の功徳を積むことですので、支援者は比較的容易に見つかるそうです。
日本の感覚ですと、修行や出家をするには多額のお布施やお金が必要かと思いがちですがそのようなことはありません。

②年齢制限はありません。

③いろいろなルートがあるかとは思いますが、このご質問に関しては私も非常に苦労をいたしました。
タイは、誰もが出家できる国だとは言っても、突然お寺を訪問して出家するというのは、実際には難しいかと思います。
まずは、タイに知り合いやコネクションを作り、出家をしたいということを伝え、お寺を紹介してもらうといいでしょう。
また、外国人僧をたくさん受け入れている寺院で出家をするという方法があります。外国人の扱いに慣れたお寺で出家をすれば、出家に関する全てのことを引き受けてもらえます。世界には、ご質問者様と同じ志をもっておられる方がたくさんいらっしゃり、出家を志す人がたくさんいます。また、そのようなお寺であればビザなどの滞在手続きも比較的容易です。

私も非常に苦労をしましたので、出家への道筋は、できるだけ計画的に進められることをおすすめ致します。

余談ですが、ここではタイを前提に書かせていただいておりますが、出家を希望される国はすでにお決まりでしょうか。同じ上座仏教国であっても国によって事情が異なります。

タイやミャンマーでは、一時出家の習慣があり、出家者の大半は習慣で出家し、還俗していきます。ですので、比較的出家しやすいと聞きます。
しかし、スリランカにはそういった習慣はなく、比丘出家は一生のもので、還俗とは「堕落」だという価値観が存在します。そのあたりは、日本の出家の価値観と似ており、タイやミャンマーと比較すると出家が難しいと聞きます。
また、ミャンマーは、著名な瞑想センターやマハーシ式瞑想法の発祥の国で有名ですが、現在の政情がやや不安定なので、長期滞在となると今後どのように政情が変化してゆくのかがわかりませんので、やや不安が残ります。

④日本人が出家するに際しての手続きは特にありません。外国人であってもタイ人と全く同じで、外国人だからといって特別なことはありません。
ただ、一番問題となるのはビザの問題でしょう。3ヵ月以内の一時出家であれば、観光ビザで十分ですが、長期滞在となると観光ビザの更新を重ねなければなりません。
あるいは、仏教の修学を目的とするビザである「宗教ビザ」を取得することができれば、1年に1回の更新手続きで滞在が可能です。しかし、これは誰にでも容易に取得できるというものではなく、所定の書類(滞在するお寺の住職による証明)と手続きが必要です。書類に詳しいお寺か外国人僧が多く出家するお寺などであれば可能ですが、どちらかというと特殊なビザなので詳しいタイ人も少ないかと思われ、個人では難しいかと思います。

実際に長期滞在のビザに関する問題は、長期の出家生活を送る日本人僧の大きな壁でもあります。長期になればなるほど難しくなるようです。

以上、簡略ではありますが参考にしていただけましたでしょうか。さらにご質問や気になる事項などがありましたら、コメントでも結構ですし、直接メールをいただいても構いません。お気軽にお願いいたします。長文となる可能性のあるご質問は、より詳細にお伝えできることもあるかと思いますのでメールのほうが助かります。

ご質問者様の出家がかないますように願っております。

今後ともよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

てく様コメントありがとうございました。

body_mind さんのコメント...

父の死後、私は「次は自分の番だ」と死の恐怖に襲われました。
何をやっていても心の中から、その恐怖が去らないんです。で、
「坐禅中に死んだら本望だ」とは、全く思えないんですけど、
思うしかない。そう思わなかったら耐えられない、という状態
が続きました。で、ある時、「不死の境地に達したというブッダ
御自身、そしてその御弟子達も皆、亡くなっている。結局、不
死とは言っても肉体の死は避けられない。不死とは肉体ではな
いものについての事だ」と、気付いたんですね。当たり前のこ
とでしょうが死の恐怖の中にいて「死にたくない死にたくない」
と必死だったのかも知れません。それまで特に虚無論者だった
訳でないと思いますが・・・。

その頃には恐怖心は次第に薄まってはいましたが、また、現在もそうですが
これがてくさん言うような死を超克したのか、日常に埋没して鈍感になって
来たのか定かではないですが多分後者でしょう・・・

不浄観の意味についてですが単にアビダルマ的に「貪欲の捨断」じゃダメですか。
出家者は律の下にありますし、在家でも独身者、男やもめ、女やもめ、若年者は
自制すべきでしょう。となれば不浄観・身至念以上のものはないと、で、初禅が
得られる。先はまだ長いですが・・・

Ito Masakazu さんのコメント...

コメントをいただきましてありがとうございます。

不浄観とは、自身の不浄を観じ、自己への貪欲を捨てる、あるいは他身の不浄を観じ、他者への貪欲を捨てるものであると理解しています。
ひとえに「人間」という存在をどのように見るべきなのか?つまり、人間存在の真実を、あるいは人間の見方を示すものであると思うのです。人間とは不死の存在、永遠不滅の存在であるとみるのか、日々老いゆく身であり、病を患う身であり、やがては死にゆく存在であるとみるのか・・・不浄観とは、そのどちらの見方が真実であるのかということを直接的に示そうとするものなのではないでしょうか。ですので、私も不浄観とは「貪欲の捨断」であると理解しています。

記録や文献の中でしかうかがい知ることはできないことではありますが、ブッダやその弟子たちを含めた著名な仏教を生きた人達はみな「ごく日常の出来事」として「死」を迎えているように感じます。あまりに潔く、あまりにあっさりと。

還俗し、俗な生活に埋もれきっている私はまさに「元の木阿弥」そのものです。言葉ではなかなか表現しきれませんが、結局は苦悩を超えられませんでした。今、このように振り返ってみても情けない限りです。
おっしゃる通り、自制は大切なことであると思います。必要以上に欲を増長させる必要はありませんから。しかし、日常生活の中は苦悩を増長させるものばかりですね・・・。

話題がそれてしまいましたが、不浄観を含めた仏教の修行とは、自己の「価値観」の転換、さらにはこだわりの捨断なのではないでしょうか。その転換がなされれば、おそらく死への恐れも無くなるのでしょうね。

とある日本人の師から、「水草のように流れに従って生きる。巡ってくる縁に従って、抵抗することなく生きる。抵抗するから苦しむことになるのです。そこに安らぎがあるんですよ。」と諭されたことがあります。そのレベルでさえも私にとってはまだまだ遠いのですが、ほんの少しだけとらわれから離れることの意味がわかったように思えた一言でした。

不浄観・・・
私が、自己の「死」というものに直面した時、本当の自分の姿というか、自己の立つレベルというか、ステージとでも言うのでしょうか、それをはっきりと見せつけられるのでしょうね。