寺にもいろいろな性格というか、役割があるのである。
日本の寺の感覚からは少し理解しにくい側面もあり、実際に触れてみないと判別がつきにくい。
例えば、日本でいうところの「本山」のような寺と近所の町や村の寺とでは、その性格が違うのにあてはめてみると理解しやすいかもしれない。
タイの人達も、それぞれの目的に応じて、それぞれ行きたい寺へお参りに行く。
どんな寺があるのか・・・
お葬式などの儀式をする寺、学問をするための寺、絶大なご利益があるといわれる寺、瞑想修行をするための寺や森の寺などなど。
ご利益がある寺などは、日本で言うところの、「○○にご利益のあることで有名」な神社・仏閣にお参りをする感覚に似ている。
このように書くと、厳密に区分けされているようであるが、そうではないし、タイ人も厳密に意識しているわけでもない。
ご利益がある寺などは、日本で言うところの、「○○にご利益のあることで有名」な神社・仏閣にお参りをする感覚に似ている。
このように書くと、厳密に区分けされているようであるが、そうではないし、タイ人も厳密に意識しているわけでもない。
しかし、大きく分ければ儀式や学問をする寺である『町や村の寺』と、瞑想修行をするための寺である『森の寺』に分けられる。
ご利益で有名な寺などは、いうまでもなく前者に含まれる。
簡略に町や村の寺について紹介してみたい。
町や村の寺は、一般の男性達が出家をする。
ご利益で有名な寺などは、いうまでもなく前者に含まれる。
簡略に町や村の寺について紹介してみたい。
町や村の寺は、一般の男性達が出家をする。
そして、学問寺は、田舎で出家をした(出家をさせられた?)青年たちが集まっている傾向がある。
これは、寺の支援によって、勉強ができるうえ、頑張れば大学まで進学できる可能性があるからだ。
もちろん、僧侶として進学する場合、比丘の大学に進学することになる。
僧侶の大学も大学で、例え還俗した後も大卒としての待遇を受けることができるのだ。
また、バンコクやチェンマイといった都会の学問寺で学ぶチャンスもある。
また、バンコクやチェンマイといった都会の学問寺で学ぶチャンスもある。
このような事情もあってか、意外にもバンコクやチェンマイの学問寺は、地方出身者が多く、生粋のバンコクやチェンマイの出身者はいない。
森の寺は、おもに瞑想修行を志す者が集う寺である。
森の寺は、おもに瞑想修行を志す者が集う寺である。
森の寺では、戒律も町や村の寺よりもかなり厳しく守られ、日々の生活も質素である。
町の寺で出家した後、修行を志して森の寺で過ごす者もいる。
また、森の寺のような環境を好んで、直接森の寺で出家する者もいる。これは、バンコクなどの都市部のインテリ層に多い傾向がある。
何を学びたいのか、個々人の目的に応じて、お寺を選び、出家することや遊行することが可能なのである。
教義・教学を学びたければ、学僧が集う町の学問寺に行くことが好ましいし、瞑想修行を修めようと志すのであれば、瞑想指導者のいる寺や、森の寺へ行くことが好ましい。
「あなたしだい。」
なにかとタイではよく耳にする言葉である。
何を学びたいのか、個々人の目的に応じて、お寺を選び、出家することや遊行することが可能なのである。
教義・教学を学びたければ、学僧が集う町の学問寺に行くことが好ましいし、瞑想修行を修めようと志すのであれば、瞑想指導者のいる寺や、森の寺へ行くことが好ましい。
「あなたしだい。」
なにかとタイではよく耳にする言葉である。
なにをどのようにするのか、あるいはなにをどのようにしたいのかは「あなたしだい」なのである。
タイでは、寺を自由に選び、どのような形であれ、仏教を志す者を応援する土壌がある。
(『タイのお寺あれこれ』)
タイでは、寺を自由に選び、どのような形であれ、仏教を志す者を応援する土壌がある。
(『タイのお寺あれこれ』)
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