タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2022/07/29

こころの静寂とタイの森林僧院

 現代社会は、情報の社会であると言われている。


情報は“命”であり、情報の有無が全てだ。


情報が正しい判断、正しい選択を左右する。



意識しているか、していないかは別として、日々、大量の情報を処理しながら生きているのが私たちの姿なのである。



ところが、近年(というよりも、今も昔も、全く変わらぬ姿なのだとは思うが)、正しいのか誤っているのか、あるいはフェイクなのか・・・素人にはさっぱり判断がつかないような情報が飛び交っており、ひと昔前よりも適切な判断と適切な選択が迫られるようになった。



情報過多な時代だけに、情報そのものが玉石混交だ。



私は、そのような日本での日々を送っていると、タイの森の修行寺での生活がたまらなく懐かしくなってくるのである。



森の修行寺は、とにかく何もない。


生活していくために必要な、最小限のものしかない。



テレビもない。PCもない。

ゲームもない。携帯電話もない。

新聞や雑誌すらも置いてない。



さすがに現在では(私がタイで修学したのは約20年前のことである)、多少の変化はあるかとは思うのだが、基本的に瞑想修行のためのお寺であるのだから、意図的にそのように規制されているわけである。



しかし、その本当にないない尽くしで、何もないというのがまたいいのだ。



私の場合であれば、常に身の回りにあったものとしては、筆記用具とタイ語辞典くらいであろうか。


身近に置いていた本はといえば、タイへ入国するにあたり持参した『地球の歩き方』タイ編くらいのものだ。


タイで生活をしていると、やはりどうしても日本語に飢えて来ることが時々ある。


もう『地球の歩き方』を何回読んだことであろうか・・・これは、すでに笑い話の領域だ。



まさに瞑想するしかないような環境なのである。



相当苦痛な生活を強いられていたのだな・・・とお感じになられただろうか。


あるいは、そんな生活なんて、私は一生御免だと思われたかもしれない。



ところが、むしろ、実に心が軽く、爽快で、毎日が明るくなるのである。



思い悩んでいたことも、いつの間にやら消え去り、晴れ渡って来るのだ。


そして、自然におだやかな心が展開されてくるのである。



(実際には、風の音であったり、鳥や虫の鳴き声であったりが聞こえてくるであるが、それがまた大変心地良いのだ。)






『Forest Sangha Calendar 2022・2565』より





この感覚が嘘ではないという証拠に、先ほども、タイの森の修行寺での生活がたまらなく懐かしくなってくることがあると書いた通り、この今でも、タイへ帰れるものなら、私が出家をさせていただいた森の修行寺へと飛んでいきたい気持ちでいっぱいだ。



これは、つまり、いかに日本での生活に疲れを感じているかということの証でもあるだろう。


常に大量の情報に翻弄され、疲れ切っているということだ。



森の修行寺というところは、先述の通り、入って来る情報自体が少なく、過度に情報に左右されることが少ない環境だ。


情報というのは、なにもニュースや世間での出来事だけを指していうのではない。


ありとあらゆる刺激のことだ。ゆえに、全てのものを包括して情報と表現している。











森の修行寺では、毎日が瞑想三昧だ。


瞑想というのは、日々、気づきの力を高めている状態だ。


何も思わずとも、自然に“感覚”というものが鋭くなっていく。


感覚を感じるということは、思考しない、思索しない、つまり考え込まないため、思考による「疲れ」というものが減るとされている。



おそらくは、ひと昔前の人間は、このような人間が本来持っている感覚というものとともに生きて来たのであろう(ここで言う『感覚』とは、最近の日本の風潮として、欲望を肯定的に捉える意味で“感覚”と表現しているのをよく見かけるが、そうではないということを断っておきたい。)・・・そのようなことを肌で感じさせてくれる環境なのだ。



便利さの代償であるのかもしれないが、良くも悪くも現代社会の歪だろう。


ゆえに、瞑想していても、私の自宅で瞑想しているのとは、全く違うのである。


いかに環境というものが大切かということを痛感させられる。



とはいえ、どれだけ懐かしがってみたとしても、すぐに森の修行寺へ行けるわけではない。


日本という環境の中で、目の前にある厳然たる“現実”を生きていかなければならない。



情報は止め処なく流れ続け、望まなくても何かしらの情報が『私』の中へと入って来る。


意図して自分自身で必要な情報と不要な情報とを取捨選択していかなければいけないだろう。


あるいは、触れる情報量を意図的に調整していく必要があるだろう。



もはやスマートフォンにパソコンは、現代社会における生活には欠かせない必須のものである。


社会でもプライベートでも、全く使わないわけにはいかないだろう。


だとすると、やはり、努めて意識していかなければならない。











情報の取捨選択を行うこと。


必要な情報と不要な情報とを見極めること。



情報量を調節すること。


すなわち、情報機器に触れる機会を調整すること。




こうした取り組みが自分自身の身を守り、心を守っていくことになる。


できれば、森の修行寺のような生活を送りたいものであるが、現実問題として、それはなかなか難しい。


それならば、ほんの少しだけであったとしても、近づけていけるよう心掛けたい。


森林僧院での学びは、森林僧院の中だけの生活に終始するものではない。



私たちの社会生活に対しても、大切な生き方や心掛けを示唆してくれるものであり、教え諭してくれる存在なのである。


溢れる情報のなかで、ごく普通に社会生活を送っていようとも、私の心は森林僧院にある。




(『こころの静寂とタイの森林僧院』)






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