タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2022/07/19

世界各国にあるタイの森林僧院の分院

先日、かの有名な英国のアマラワティ僧院にて集中瞑想会が開かれたそうである。


このような遠く離れた海外の情報であってもリアルタイムで容易に手元へと入って来る時代となった。


私がタイに滞在していた当時にこうした情報を容易に入手することができれば、どれだけ助かったことかと思わなくもないのだが、もとより持戒堅固な森林僧院で出家をさせていただいた一所不在の出家者なのだから、たとえ当時も通信機器がどれだけ発達していたとしても、そうした器具を持つことはなかったであろうとも思う。



さて、アマラワティ僧院というのは、著名なタイの高僧、アチャン・チャー師が創立したワット・ノーンパーポンの森林僧院グループの英国分院である。


そのワット・ノーンパーポンの森林僧院グループは、タイにおける最大クラスの森林僧院グループだ。



ウィキペディアには、「タイ国内に110ヵ所以上、海外に10ヵ所以上」の分院があると記載されているのだが、タイ在住の情報通の知人に確認したところ、タイ国内外に330ヵ所、そのうち海外の分院が30ヵ所あるという情報を得ているが、正確なことは残念ながらはっきりとしない。



私が長らく滞在し、瞑想修行させていただいた分院がワット・ノーンパーポンの第117番目の分院であるので、この点をもってしても、ウィキペディアの記載は少々古い情報なのではないかと思われる。



さて、今回、アマラワティ僧院で開催された集中瞑想会へ参加した私の友人に、大変な無理をお願いして、アマラワティ僧院の公認カレンダーを入手してきてもらった。



今の時点で、すでに半年以上も過ぎてしまっているのだが、ただカレンダーに掲載されている写真を眺めているだけでも大変心が落ち着き、おだやかになってくるとても美しい写真が多数掲載されているので、是非にとお願いをさせていただいた次第である。


美しい写真であるので、時々、拙ブログにおいても使わせていただいている。

(※許可を得ているわけではないので、下記のように出典を明記させていただいている。)





『Forest Sangha Calendar 2022・2565』より






前置きが長くなってしまったが、ここからが今回の本題である。



アチャン・チャー師の森林僧院グループの海外分院は、いくつあるのだろうかという素朴な疑問がある。


実は、このカレンダーの最後の頁に世界各国にある分院の住所が記載されているのだ。



その記載によると・・・



イギリス(英国):4

スイス:1

イタリア:1

タイ:1

オーストラリア:1

ニュージーランド:2

アメリカ(米国):1

カナダ:1

ポルトガル:1


計:13



このうちタイの1僧院は、ワット・パー・ナーナチャート(国際森林僧院)である。


この僧院は、ワット・ノーンパーポンの外国人専用の僧院として建立されたものであり、タイ国内にありながらも、(タイ人から見て)外国人比丘ばかりの僧院であり、日常会話も全て英語で話されている。


上記の海外にある分院の外国人比丘たちはみな、このワット・パー・ナーナチャートでの瞑想修行を経たのち、それぞれの母国へと帰り、活動拠点として森林僧院が建立されてきた結果、このような森林僧院グループが形成されてきた。



ここで、勘の良い読者のみなさまは、疑問には思わないだろうか・・・


世界にこれだけたくさんの分院があるのに、なぜ日本にだけその分院がないのであろうかと。



アチャン・チャー師の直弟子には、今は還俗なされた大変著名な日本人比丘がいらっしゃった。


師が日本に分院を建立していても全く不思議ではないのであるが、結果として建立されることなく、現在に至っているというのが現実である。


当然、そのようなお話はあったであろうことは想像に固くないが、私は、どうしてなのかが不思議であった。


長らくその師について瞑想を学ばせていただいていた期間があるのだが、その件については尋ねる機会はついになかった。


ゆえに師の真意というか、お考えはわからないままである。






『Forest Sangha Calendar 2022・2565』より





ここからは、個人的な私見である。


いち日本人として、いち元出家者として、森林僧院での瞑想生活を知るいち修行者としての所感である。



私は、日本ゆえの「事情」だからではないかと感じている。


まず、日本には、すでに仏教“らしき”ものがある(あえて“らしき”と記しておく)。


もとより仏教そのものが存在しない欧米諸国とは事情が大きく異なり、日本へはなかなか入らなかったからなのではないだろうか。



思想的背景として欧米は、東洋の瞑想に対して、どこか「神秘的な」イメージを抱いており、とても関心が高い。


日本の「禅」に対しても同様で、日本人以上に詳しいというのは、よく言われている通りで、私自身も肌で感じて来た。


さらに、キリスト教的一神教思想が定義する「宗教」ではない“宗教”である仏教の存在は、欧米人にとってはまさに衝撃的でもあり、関心が非常に高くなるのは自然の流れだろう。


あるいは、現代科学にも一歩も引けをとらない、一切の人間的感情を挟み込む余地のない客観的分析による理路整然とした仏教の教義・教学は、大いに西洋人を驚かせたことであろう。



そのため、決意を固めて、一生ないしは長期間に渡って出家者として比丘を続ける西洋人はとても多い。


実際のデータを出したわけではなく、あくまでも私の感覚的なものではあるが、仏教的思想背景を持つ日本人が一生比丘を続ける割合よりも、西洋人が一生比丘を続ける割合の方がはるかに高いと私は見ている。


ただし、日本一国と西洋人という括りは、対等な比較としては些か不適切ではあるが・・・分院が建立されている数を考慮に入れると、当たらずも外れずな考察ではないかと思ってはいるのだがいかがだろうか。


現に、私を含めてタイで出家をする日本人は多いけれども、長期にわたって比丘を続けている者は、ほんの数名である。これは、私がタイに滞在していた当時と大きくは変わっていない。


それだけ、出家というのは、条件が揃わないとできないことであり、また厳しいことでもあるのだ。



日本にはもとより仏教というものがあるがために、タイの仏教とは似て非なるものであるにもかかわらず、日本仏教の延長線上で理解されることが多いことにも起因しないだろうか。


さらに、日本仏教の見方として、テーラワーダ仏教というのは「小乗仏教」であるとの見方が非常に強いという事情もあるだろう。


一般にはあまり意識されていないのかもしれないが、これは、厳然たる事実で、年々、テーラワーダ仏教への理解が深まってきているとはいえ、そのような価値観で理解している日本の僧侶は非常に多い。


なぜならば、諸々の日本の仏教典籍をはじめ、仏教系の大学や僧侶の養成機関などで、教学としてそのように教え込まれているためである。


とある宗派の僧侶が学ぶ機関で読まれている書籍の記述を読んで、あまりにも実際とは異なる一方的な記述に愕然としたことがある。


これは、特定の宗派に限った話ではなく、どの宗派にも言えることなのではないかと思う。


これは、テーラワーダ仏教に対して、宗派として、または日本の仏教として、どのような立ち位置で、どういった理解であるべきなのかという問題を今一度、再度確認し、見つめ直す必要がある大変大きな課題ではないかと私は強く感じている。



これだけ世界の仏教に関する情報がダイレクトに入って来ている時代である。


仏教学的な学問研究も日進月歩で進んできている。宗派根性剝き出しの仏教は、やがては仏教ではあり得なくなるのではないか。宗派があって仏教があるのではない。仏教があって宗派があるはずだ。


改めて双方の仏教に対する正しい理解を深めていく必要があるものと思われる。


それが、日本の仏教が再び活力を取り戻すきっかけになるのではないかと私は信じている。このままでは、衰退の一途を突き進むしか道はない。



ともあれ、このような日本の事情も手伝って、日本には入りにくかったテーラワーダ仏教が欧米諸国には入りやすかったのではなかろうか。


その証左として、タイで比丘として出家をし、修行を積んだ日本人が、帰国後どのようにしているのかと言えば、私のように在家のまま生活を送っている者も多数いるが、日本の僧侶となって日本で活躍されている方々をよくお見掛けする。


もともと日本の僧侶である方がタイへ留学されるケースを除いて、帰国後、日本で得度を受けて日本の僧侶となられる方が相当数おられるのである。


テーラワーダ仏教僧、つまり比丘として日本へ帰国する人はまずいない。


それは、日本の仏教の方が(教学的に)魅力だからという選択によるものなのか、新たに日本にテーラワーダ仏教の拠点(サンガ)を作るよりも、既存の日本の仏教宗派へと所属して、日本の僧侶となったほうが良いという選択によるものなのか、その点は私にはわからない。



いずれにしても、日本にはタイ人によるタイ人のためのテーラワーダ仏教の僧院はいくつも存在するのだが、日本人による日本人のためのテーラワーダ仏教の僧院は未だにひとつも存在しないというのが現実だ。


まだまだ書かせていただきたいことはたくさんあるのだが、これ以上は、多少厳しい表現になってしまう可能性があるので、このあたりで控えておくことにしたい。


もし、この先の私の所感をご希望であれば、ぜひ直接メッセージをいただきたい。


多数いただいた際は、記事とすることにしたいと思う。



最後に、もう一点だけ、思うところがあるので、それをお伝えして締めくくりとしたい。



それは、現代の日本人にとっては、仮に日本に分院があったとして、日本の分院を尋ねるよりも、本気で学びたいということであれば、タイの分院へと足を運び、直接、仏教や瞑想を学ぶことに意義があるのではないかと思う、という点である。


なぜならば、坐っている時間だけが瞑想であるのではないし、学びであるのではない。


タイの僧院での食事や掃除、瞑想の時間、森の中の質素な小屋での生活。


托鉢に歩く時間、人々からのお布施を受け取る瞬間、または自身が比丘へとお布施をする瞬間。


日本人にとっては、篤き信仰の世界に身を置くことこそが必要で、それ自体が学びとなるはずだ。


いや、宗教に疎い、仏教無き日本人にはそうした学びが必要なのだ。


そうではないだろうか・・・何をすることが宗教なのか、どう生きることが仏教なのか、日本人はあまりにも知らなさ過ぎる。


身を置いている全てのことが瞑想であり、すべてのことが仏教の学びなのである。


僧院によっては、電気さえも引いていない、現代社会では考えられないような生活環境を強いられることさえある。


電気も何もかも揃っていて、決して無いわけではないのに、なぜそこまでしているのだろうか。そうした素朴なことがらへも、ぜひ問いかけていただきたいのだ。


そうした経験もまた仏教であり、瞑想であり、修行なのである。



仏教“らしき”ものは日本にもありはするが、タイのように生活の全てに『三宝』が生きているという環境は、残念ながら日本にはない。


仏教国といわれている日本が忘れ去ってしまったことがタイにはあるのである。


少し厳しい言い方をするとすれば、日本には、仏教はない。仏教の残骸が残っているだけである。その残骸の有無が欧米諸国との違いなのではないだろうか。


それゆえに、タイまで行ってイロハのイから感じ取り、学び取ってくる必要があるのではないだろうか。



国内に支院があった方が良いとは誰もが思うところではあるが、これはアクセスの問題ではないのである。


タイで学ぶからこそ、大きな価値があるのであるし、日本の仏教のどこが矛盾しているのかがよくわかるというものである。




(『世界各国にあるタイの森林僧院の分院』)






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