タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/02/19

真面目なほど尊敬されるタイのお坊さん


出家の目的は、言うまでもなく「悟り」であり、瞑想することであり、仏教を学ぶことにある。



タイでは、出家における生活態度が真面目であればあるほど尊敬される。


さらに、自律的で、禁欲的であればあるほど“崇拝”される傾向にある。



「真面目であればあるほど尊敬される」というのは、当たり前と言えば当たり前の話で、至極、筋の通った話だ




これは、なにも“出家生活”に限ったことではない。


普段の日常生活におけるどのような場面においても同じことで、ここで敢えて採り上げる程の話題ではないのかもしれない。



タイでは、僧伽そのものに対して敬意がはらわれる。


なかでも、著名な比丘や瞑想指導者が止住するお寺は、人々からの特に篤い崇敬を集める。


とりわけ、“特別な力”があるとされる比丘への崇敬は比ではない。



もっとも・・・特殊な能力の持ち主に対して崇敬というか、崇拝というかが集まるのはどこも同じであるが。



私が興味深く感じたのは、一般的な町のお寺の比丘よりも、森のお寺の比丘の方が“若干”ではあるが、「一目置かれる」ということだ。


これは、持戒堅固な生活と修行への真面目な姿勢や生活態度への敬意という側面もあるのではないかと感じている。



在家の人々は、比丘達のことをよく見ている。


真面目にやっていれば、どこからともなくお布施を申し出てくれる支援者が必ず現れる。


それは、ある特殊な能力を持った者や、特に優れた比丘に対してだけというわけではなく、ごく普通の出家者であっても同様なのだ。



・・・それは、「生き方」なのではないだろうか。


人の「生き方」とは、何気ない仕草や所作、言葉や雰囲気のひとつひとつが人柄となってじわりじわりとにじみ出てくるもの。



彼がどのように生きているのか。


そうしたところがしっかりと見られているということなのだろう。


ゆえに、ごく普通の出家者であっても、真面目な生活態度の者に対しては、相応の敬愛の念が高まって来るというわけだ。





タイの僧院では、毎日一日の終わりに戒律の違反が無かったかどうかを告白し、互いに懺悔し合う。
写真:『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より





タイの出家者は、経済活動を行うことができない。


副業をもったり、お金を稼ぐということができない。



出家とはすなわち、自活生活を放棄することであり、悟りを求めることに専念する生活である。



真面目なほど尊敬されるタイのお坊さん・・・たとえ“不真面目”な人であったとしても、比丘である限りはそれなりの敬意がはらわれる。


しかし、尊敬の対象である僧伽の一員たる者の生活態度に対する目は厳しいということは心しておかなければならない。



律とは、単なる禁止事項や縛りとしてあるのではない。


「個人が悟りに向かうためのもの」と、「仏教教団内の円滑な組織運営のためのもの」と、「仏教教団が存続していくために必要である社会に認められるためのもの」の3種に分類することができる。


仏教教団が成立した初期の段階において、「社会」との関わり方に十分配慮していたという痕跡を窺うことができるだろう。


森のお寺の比丘や禁欲的な生活態度の比丘に対する敬意は、修行熱心ということだけではなく、戒律順守の持戒堅固な生活態度への敬意でもある。



先程挙げた3種のうちの「仏教教団が存続していくために必要である社会に認められるためのもの」とも深く関連するものだ。



こうした戒律の生活のなかに身を置きながら、ひたすら悟りを目指していくわけであるが、ただそれだけではなくて悟りへの道を通して己の人間性を磨き、人格を向上させていくシステムもしっかりと整っていると感じた。


それは、戒律を単なる生活上の「縛り」としてしか理解していない日本人にとっては、固定観念を打ち砕くものだ。



たとえ、出家者としてではなく、還俗をして戒律生活から離れた在家者として生きていたとしても、しかもタイから遠く離れた日本で生活をしている私のような者に対しても、今なお人生の学びを与え続けてくれている。



・・・私があまりにも美化し過ぎているだけなのかもしれないが、決してそうではないはずである。



そのことを思った時・・・やはり、タイとは“仏・法・僧が篤く敬われている国”なのだと心から感じた。


タイの非常に素晴らしいところであり、タイが敬虔な仏教国であると言える証であると思う。


仏教の学問や瞑想に専念できる環境があり、またそれを応援してくれる環境が整っている国。


それがタイなのだと。



「嗚呼、仏教とは、こうなんだ・・・。」


と、そのように感じるのである。



(『真面目なほど尊敬されるタイのお坊さん』)










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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
真面目な生活態度の出家者が尊敬される傾向があるのは、ミャンマーでも同じようでしょう。戒律厳守の寺院や僧侶に敬意が払われ、お布施も集まりやすい傾向があるようです。
ミャンマーの瞑想センターで、「遠路、ミャンマーまで来て瞑想修行する外国人は、それだけ真剣かつ熱心で真面目な人が多く、そういう修行者にお布施することは、布施者にとってもより徳が積める」と考えているミャンマー人もいるということを聞いたことがあります。一方で、当たり前ですが、仕事もせずに瞑想センターで修行しているということで、不真面目な修行者に対しては厳しい見方をする方もいるようです。
いずれにしても、ミャンマ-人も、出家者や修行者のことをよく観察しています。
あと、藏本龍介「世俗を生きる出家者たち」(法蔵館)に、簡素な出家生活を目指して森の中に造られた僧院であるが故に、篤信の信者からのお布施が集まり、結果として当該僧院が富裕化してしまうという事例が紹介されていました。このあたり、難しい問題のようです。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

ミャンマーの瞑想センターは、大変厳しいというお話を私も聞いたことがあります。やはり、修行者の側も自己への戒めとしてしっかりと心得ておくべきだと思います。
特に、お寺や瞑想センターに出入りしている人達は、ごく普通に仕事をしていたり、なにげに過ごしているようであっても、修行者達(出家修行者・在家修行者ともに)のことをよく見ていて、よく観察しています。

とてもありがたいことに私は、そのお陰もあってお寺の側から出家のお話をいただくことができました。当時は、こうしたタイの雰囲気というものを全く知りませんでしたが、怠惰な生活になってしまわないように自分で時間割を定めて、それに従って毎日同じことを同じように実践するようにして、瞑想実践に励んでいました。今、振り返ってみると、きちんと見ていてくれる方がいたのだと感謝の念が湧き上がってきます。

質素な生活であるはずの森のお寺や修行寺の方が、町や村のお寺よりもお金持ちで裕福だというのは、なんとも皮肉ですね。私も、一見すると建物やその雰囲気はとても質素なのに、食べ物も物品も非常に豊富に揃っていて、実は、とても裕福だったというお寺を目の当たりにして驚いた経験があります。
お布施があるからこそ出家生活が成り立っているのですから、それはそれで構わないことだとは思いますが、本当に難しい問題ですね。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。