タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/01/29

日本に仏教という宗教はない!?


タイの仏教には、多数派のマハーニカイと戒律厳守派のタンマユットニカイの2つの宗派があるということはご存知の通り。


その違いは、教義・教学に対する理解や解釈の違いではなく、戒律の順守具合の違いによるものだ。


もちろん、双方のお寺への行き来も可能である。



タイでは、日本ほど「宗派」という意識を持ってはいない。


・・・と言うよりも、日本における「宗派」の概念に当てはめて理解をしようとすること自体がナンセンスなことで、適切な理解とは程遠くなってしまうのではないかと思う。



マハーニカイでもなく、タンマユットニカイでもない。


「仏教」として認識されている。











・・・日本には、「仏教」という宗教は存在しないのではないかと感じることがある。



このように書くと、


「いやいや、しっかりと日本にも仏教はあるじゃないか。」


「ちゃんとお寺もあるし、ちゃんと僧侶だっているじゃないか。」


と言われそうだ。



私もそのように思っていたのだが・・・例えば、日本の「仏教」という宗教とは、どのような教えの宗教であると説明するだろう?


宗派によって、大きく異なるため、その説明に困ってしまうのではないだろうか。



日本で「仏教」と呼ばれている宗教は、「〇〇宗」というたくさんある仏教宗派を総称してそう呼んでいるのであって、「仏教」という教団が存在しているわけではない。


仏教から派生した宗派、すなわち「〇〇宗」という教団が存在しているのであり、さらには「〇〇宗〇〇派」という教団が存在しているのである。


登記上の問題ではないかと言われるかもしれない。


あるいは、根本的な部分では確かに仏教だと言われるかもしれないが、ともするとそれもいささか疑問に感じることがある。



教義の内容、教義の解釈が異なる。

得度の作法や規定が異なる。

礼拝対象が異なる。

採用しているお経が異なる。








私は、専門職である僧侶の立場にある者ではないので、言及することは適切ではないが、ともかく宗派によって大きく異なるというのが日本仏教の姿であるかと思う。



私達が目する寺院は、必ずどこかの宗派に属している。


同様に、僧侶も必ずどこかの宗派で得度を受けて僧侶となっているはずで、必ずどこかの宗派に属しているはずである。


宗派によって得度の作法や規定が違うため宗派が違えば、当然その宗派の僧侶ではなくなる。


ゆえに、日本では「仏教の僧侶」という表現よりも、「〇〇宗の僧侶」という表現がよく用いられる。



根本的な部分では同じ仏教だとは言いつつも・・・それぞれが全く異なる教義を有した全く別々の宗教に見えてくるのだ。



『日本には“仏教”があるのではなく、仏教から派生した宗教”がある』というのが日本のいわゆる“仏教”と呼ばれている宗教の実際なのではないかと思う。




同じ教義、同じ戒律。


地域による差はあるけれども、同じ作法で同じお経。


タイのどこへ行っても基本的には同じ。


これは、タイ国内だけに限らない。


上座仏教が信仰されている国々に広げたとしても同様だ。



例えば、以前拙ブログのなかで紹介させていただいた『仏舎利の出開帳』のような仏教的な交流は、国が違っていたとしても同様の理解のうえで、また同様の信仰のうえでなされている。


とても心が暖まる瞬間だ。




・・・こんな話を聞いたことがある。


日本のとある地域内にある仏教寺院で結成されている仏教会で実際にあったという“実話”だ。


宗派を超えて地域内にある全ての仏教寺院が集まって、合同である法要を勤めることになったのだそうだ。


そこまではよかった。


ところが、どのような次第でもって、どのようなお経を勤めるのかというところまで話が進むと、全くまとまらずに収拾がつかなくなってしまった。


挙句の果てには紛糾してしまったという。



宗派を超えて読誦できる共通のお経がなかったためなのだそうだ。



このお経は、うちの宗派では読まないから駄目だ。


このお経は、うちの宗派の教義に反するものだから断じて読誦することはできない。



結局、その後、どのようにまとめられたのかという話までは聞くことができなかったのだが、どこか複雑な気持ちになった。


日本の仏教は異なる宗教だと感じざるを得ない象徴的なエピソードだと思う。



おそらく、日本仏教の歴史を見てもわかる通り、特に明治期以前の時代は、現在とはまた違った宗派の理解ではなかっただろうか。


今後も日本仏教において「宗派」がなくなるということはあり得ない。


逆に宗派の識は、さらに顕著になっていくのではないかと感じている。


さらに分派していく可能性も大きいと感じているし、ますます各宗派は“独自性”を帯び、“個別化”が進んでいくのではないだろうか。



タイの仏教に触れて仏教を捉える目が少し変わったように思う。


改めて日本の仏教を見つめ直してみると、非常に複雑な思いにさせられる。




本当の仏教の教えを説いてくれる場はあるのだろうか。


今を生きる智慧を手ほどきしてくれる場はあるのだろうか。



明日を生きる力を得ることはできるであろうか。


今を、明日を、未来を善き心を育てつつ生きていくことができるであろうか。



私はどうであるか。


今の私をどう生きるのか。



日本には、仏教に生きようとする者たちの拠り所となる「僧伽」の存在がないということがとても残念でならない。


「日本に仏教という宗教はない」などと思いたくはない・・・そのように感じているのは、私だけではないはずだ。



(『日本に仏教という宗教はない!?』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
確かに日本仏教は宗派仏教ですね。
高校生の頃、仏教に関心を持ってちょっと学んでみようと思った時、最初にぶつかった壁がこれでした。
各宗派によって言っていることが異なり、仏教という教えとは何なのか益々判らなくなってしまった記憶があります。
そこで仏教史を勉強してみて初めて、大乗仏教は仏滅後に成立してきたこと、大乗仏教といっても様々な教義があること、「大乗仏教非仏説」なる議論があること、大乗仏教の起源は未だによくわかっていないこと、大乗仏教誕生以前の分派仏教時代があったことやさらにそれ以前の段階を原始仏教と言い表されていることなどがわかってきました。
この時点で、私の心中では、日本の宗派仏教も面白いかもしれないが、まずはオリジナルである原始仏教、あるいはそれに最も近いと思われるところの上座仏教を学んでみたいと思った次第です。丁度当時、岩波文庫から刊行し始めた中村元先生のパーリ仏典の翻訳を読んでいました(スッタニパータの翻訳はそれ以前に刊行されていました)。
こうした流れで、私は日本仏教ではなく、上座仏教に傾倒していきました。
実際勉強してみると、上座仏教だけでもまともに勉強するのは大変ですし、さらに瞑想実践はかなり習熟が必要です。とても大乗仏教にのめり込む余裕はないのが実態です。
ただ、日本仏教や大乗仏教を否定する気もありませんし、そういう教えもある種必然性があったものと思われます。禅宗の典籍などはけっこう役に立っていますし。
「日本に仏教という宗教はない」というのは、言い過ぎのような気もしますが、確かに日本の仏教界は、開祖ブッダではなく、各宗派の祖師方を敬う傾向がありますからね。祖師方も仏弟子の一人ではないかと思ってしまいます。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

私も全く同じでしたね。一方では推奨されていることがらであっても、もう一方では強く否定されている・・・そのようなことが多々ありますから理解が容易ではありません。日本の仏教を理解しようとした時に混乱してしまう一因であるかと思いますが、そうした教えや解釈へと至るまでには「過程」があるわけですから、その「過程」や「背景」をしっかりと理解すれば、意外と腑に落ちることもあると感じています。

日本には、少なくとも“法人”上では「仏教」という名の宗教団体は存在しません。現在の日本の仏教には、タイやミャンマーのように共通した仏教の “テキスト”がないので、どこの宗派で、あるいはどこでどのように仏教を学んできたのかによってその理解が大きく変わってきます。もしも、共通の理解があるとすれば「お釈迦さまの一生」ですが、これも宗派によって“お釈迦さま”そのものの位置付けが変わってきますので少し注意が必要です。そのあたりの仏教事情は日本特有なのかもしれません。

しかしながら、それぞれの宗派の成り立ち、歴史、その経緯などの違いがあるので、これは仕方のないことなのかもしれません。・・・ある方が、仏教の「教え」そのものと、教団という「組織」とは別々のものだとする向きもあるが、教えのための組織であり、教えを守り伝えるために選択してきた結果の“形”なのだから、その点をしっかりと理解をしておくべきだ、ということを指摘されていましたが、なるほどなと思いました。今後、日本の仏教はどういう方向へと向かっていくのか、私は少し心配です。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。