タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2018/05/08

平成の時代って「不確実な時代」なの?

インターネットで「不確実な時代」と検索すると、「不確実な時代を生きる」「不確実な時代を生き抜く」「不確実な時代を生き残る」「不確実な時代を勝ち残る」「不確実な時代を照らす光」などという見出しのタイトルの記事がずらりと並ぶ。

果たして平成の時代とは、それ程までに不確実な時代で、それ程までに不安な時代なのだろうか。


平成の時代が不確実な時代なのかどうかと問われれば、確かに不確実な時代だという答えになるだろう。

しかし、それは決して平成の時代“だけ”がそうなのではない。

この世界そのものが不確実だ。

なにも平成の時代“だけ”が不確実なのではなく、この世の無始よりこの方ずっと不確実なのだ。

どの場所も、いつの時代も、全てのものが不確実であることだけは変わらない。

これが真実の姿だ。

ゆえに、インターネットにあるようなタイトルのように、今更「不確実な時代」と言われるまでもなく、この世とは不確実なものなのだということを知り、不確実な世界を生きているのだということを改めて自覚すべきだと思う。

しかしながら、社会の中でごく普通に生活を送っていると、不確実な世界を生きているということをついつい忘れてしまう。

逆に言えば、全く自覚しずらい事柄だからこそ、こうしたタイトルが人々の目を惹き、流行るのだ。



三衣と鉢
『テーラワーダ仏教の出家作法』52頁より。



出家をするとは、何の保障もない世界に飛び込むことだと言っても過言ではない。

必要最低限の持ち物しか所有できない何もない生活。

全てを在家の支援者(信者)に依らなければならない生活。

出家というものがごく身近に存在するタイの人々にとってはそう感じる人は少ないのかもしれないが、日本人にとっては何もかもを捨てて飛び込む世界に等しい。

着ている服も、所有している物も、全てを手放したうえで出家者となる。

家族も、財産も、自分が所有していたものの全てを手放して出家するのだ。

その出家の生活に「確実」なものは何もない。


仏教の大学で学んだ私にとって、無常の世界だ、不確実な世界だなどという言葉は、言わば“耳にタコができる”ほど聞かされてきた話である。

しかし、それが本当に腑に落ちていて、体得できているかと言われれば全く別次元の話だ。

即ち、理解などできていないということで、心のどこかで“確実”だと思い込んでいるのだ。






予測不可能なこの世界、不測の事態ばかりのこの世界、何がどうなるのかわからないのがこの世界だ・・・

どんなことに出会っても動じない揺るぎない心、どんな時であってもどんな場所であっても冷静に、かつ冷徹にものごとを観て、判断できなければならない。

全てが不確実であり、何が起こるかわからないというのがこの世の中の真実の姿で、そのなかを生きているのだ。

それは、無始よりこの方、全く変わらない真理だ。

その真実の姿をよく知っておく必要があるのではないかと思う。

人間として生きている以上、なかなか難しい話であるのかもしれない。

しかし、常に不確実であることを観察し続けて、常に肝に銘じ続けていくことが大切なのではないかと思う。

そこに出家、在家は関係ない。

どこにいようとも、どんな立場であろうとも、その実践に変わりはない。



(『平成の時代って「不確実な時代」なの?』)






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