タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/03/08

瞑想修行中の苦悩 ~性欲~

瞑想修行のなかで、最も苦しかったこと・・・

前回の記事では「睡魔」だったと書いた。

もうひとつある。
それは・・・「性欲」だ。

眠気は、一度襲われると相当なものがある。
しかし、適度な睡眠をとれば収まるものでもある。

ところが、性欲はそういうわけにはいかない。

常に心の奥底で影を潜めている。
時に、ふつふつと湧きあがってくるものがある。

それはまるで赤くドロドロと燃え盛る“マグマ”のようだとでも表現したらよいだろうか。

戒律によって性的なことは一切禁じられている。
「ダメだ」と言われると余計に湧きあがってくるものだ。

言うなと言われると言いたくなる、するなと言われるとしたくなる・・・いかにも人間的ではないかと笑われもするかもしれないが、真剣な話である。

性欲は、眠気をはるかに凌駕する苦悩であると私は思う。


女性に目が行く。
性的なものを求めてしまう・・・

・・・普段の生活の中では、特に意識されることなく過ぎているはずだ。
いわゆる男の“スケベ心”で終わる話なのかもしれない。

しかし、瞑想実践のなかでは明確に意識しなければならない。

それは紛れもない「性欲」であり、自己の「妄想」だ。
性欲の根強さと根深さを思い知らされた。

瞑想によって、いかにして「性欲」というものの正体を見抜いていくかが重要だ。
すなわち「性欲」というものの“真の姿”を見抜き、それらが単なる“自己の妄想”にしか過ぎないものであると見破っていかなければならない。

実に性欲とは、自己の想像や妄想、思い込みの産物なのである。


そこまで性欲の正体というものを解しているにもかかわらず、いとも簡単に性欲に飲み込まれてしまう。

眠気とともに、特に「性欲」というものに苦しみ続けることになったことも、私の天性の性質によるものなのだろうか。

それとも、“動物”としての本能なのか・・・。

嗚呼・・・。


過去の記事においても、出家中の最も大きな苦悩として「性欲」について触れている。

⇒関連記事:

『死を直視する~不浄観~』

『死体の写真と煩悩』

浮かび上がってくる性欲を「妄想」としてサティしたり、ひたすら呼吸へと意識を戻すことが最も基本的な対処方法であった。

ただひたすら自己の感情をサティするしかない。
あるいは、すぐさま手放し、また呼吸の観察へ戻し対処していくしかない。

そしてもう一つ。
自己の身体の各部分をしっかりと観察していくことで対処する。

すなわち、頭髪、体毛、爪、歯、皮膚をはじめ、心臓や肺、腸や胃、大便や小便など、身体の各部分を詳らかに観察していく。
そして、人間の身体の真の姿、ありのままの姿を観察し、自己の勝手な妄想や思い込みに気づいていくのである。

人の体は美しいものであろうという自己の思い込みを“思い込み”であると知る。
そして、この身体は不浄なるものの集まりであると観察し、性欲を抑制していくのである。

さらには、死体の観察だ。

森の寺などによく飾られている、骨の写真や死体の写真などで、この身体の不浄を観ずるのである。

⇒関連記事:『死体の写真と煩悩』

タイでは、そのための小冊子や写真などが売られている。
私もバンコクの仏教書籍の書店で売られていた不浄観のための骨や死体、内臓の写真が載せられた小冊子を持っていた。

これは、れっきとした仏教書で、身体の姿を観察するためのものだ。
ひたすら身体を観察し、自己の性欲を単なる妄想であると気づかせるのである。

そして、身体とは単に「このようなものである」と知るのである。(※註1)


私の身体とは、ただ“このようなもの”であり、単に“このようなもの”でしかない。

そう、“このようなもの”なのだ。


ある日、私は、大変お世話になった尊敬している師にこのように尋ねたことがあった。


「性欲が消え去らず、大変苦労しています。
性欲から離れることができる方法はありますか?」

と。師は、


「恥ずかしいことだけれども、私だって完全に性欲から離れることができているわけではない。
時々、苦しめられることだってある。

しかし、性欲というものは、表面的に消し去ろうとしても意味がない。
あるいは、たとえ男性器を取り去ったとしても意味がない。
性欲というものの本質を見抜かなければ、全く意味がない。

性欲というものの本質を見抜いてこそ、性欲から離れることができるものなのだよ。」


と私に諭してくれた。

尊敬する師のような方でも性欲に悩まされることがあるのだということに、少しばかりの親近感を覚えた。

実際に、男性器などなくなってしまえばよいのにと思ったことさえあった。
しかし、そのようなことをしたところで性欲は消え去りはしないということだ。

性欲=男性器であるとの短絡的な考えも、本質を全く見抜いていない妄想だということである。

全く性欲はなくならない。
性欲の本質を見抜き切ることの難しさを感じた。


また、性欲についてこんなことを語ってくれた師(先程の師とは別人)もいた。

私がタイで出家する前に日本でさまざまな人を訪ね歩いていた頃、何十年も前にタイでの出家経験を持つある師の体験談だ。

それは、非常にインパクトのあるものだった。


「性欲は相当に根深い。

私は、出家中に寺で骨を並べて不浄観を修していた。
そうしたら、髑髏(どくろ)がそれはそれは美しい女性になってきた。
そして、ゆっくりと私の方を見つめてにっこりとほほ笑みかけてきた。

思わずはっとして我に返った。

これほどまでに性欲は根強いものなのかと思い知ったね。」


と、師は私へこのように当時の体験談を聞かせてくれた。

髑髏が美しい女性になってほほ笑みかけてくる・・・それほどまでに性欲は強く、妄想させるものなのであるということだ。


私は、ついに性欲を消し去ることはできなかった。

性欲を消し去るどころか、数週間から数カ月ごとに起きる「夢精」による快感を心待ちにすることさえあった。

大変情けないことである。
しかし、事実、そういう感情もあったのだ。

戒律では、故意ではない、生理現象によって起こるものとして夢精を禁じてはいない。(※註2)
戒律に違反するものではないが、心待ちにするという感情自体が性欲の現れだ。

そうした感情をもただただありのままを観察せねばならない。

私が自己の苦悩を打ち明けた師達もまた同じく、性欲に苦しめられてきた経験をしている・・・それだけが私の唯一の慰めであった。


眠気が最も苦痛だったと記したが、私にとっては性欲の方がはるかに大きな苦痛であった。


まずは、しっかりとサティによって対処をしたり、身体の観察によって対処していくことが大切である。
そして、妄想を妄想であると知り、その正体を見抜くことが大切だ。

“ある程度”は、それらで対処が可能だろう。

しかし、眠気と同様、それ以上に強い性欲を越えるには、やはり“瞑想の喜び”を得る段階まで到達することが必要なのではないかと感じた。

私は、そこまで到達することができなかったが・・・。


別のある師からは、

「性欲を越えるには、性欲以上の快感を得るしかない。
瞑想することが性の快感以上の快感となれば、性欲なんてそう難しい問題ではなくなるのではないか。
まだ瞑想することが楽しくないのではないかな。」

と言われた。

確かにその通りだと思った。
性欲以上の快感を得ることができれば、性欲など興味すらなくなってしまうことだろう。


男女関係や性欲から、どれだけの悩みや苦しみが生まれていることか。
邪な性欲は、大いにトラブルを招きやすい。

ここは、はっきりと理解しておきたいことだ。

眠気にしても、性欲にしても、人間の根幹に関わる「欲求」であるため、そう簡単に対処できるものではないのかもしれない。
かといって、欲望が赴くままに行動していいはずはない。

常に自己を観察できる自分を磨いておかねばならない。


タイの女性は美しい。

街ゆく若い女学生達の姿は特に深く印象に残っている。
黒いスカートに白いブラウス。
これは、タイの女学生達のごくスタンダードな服装だ。
彼女達の姿は、実に爽やかで、実に美しく私の目に映ったことを記憶している。

今も、ついつい綺麗に着飾った街ゆく女性達に視線がゆく。
ああ、抱いてみたいものだと思う。

男性であれば少なからずいだいたことのある感情なのではなかろうか。
逆に女性にはこうした感情はないのだろうか。
是非とも聞いてみたいと思う。


性欲は、単なる妄想であると自己に説き聞かせることができなかった。

元の木阿弥となってしまった。



※註1

参考文献:

『テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの受具足戒・比丘マニュアル』
中山書房仏書林 2014年/100頁~102頁

※註2

戒律には、以下のようにあり、「自慰」は禁じているが「夢精」は除外している。

・「故意に自慰をなす。ただし夢中を除く。」
『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』
平楽寺書店 1986年/99頁

・「故意に精液を泄らせば、夢中を除きサンカーディセーサである。」
『パーティモッカ二二七戒経 タイ・テーラワーダ仏教・比丘波羅堤目叉』
中山書房仏書林 2011年/25頁



(『瞑想修行中の苦悩 ~性欲~』)





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4 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

性欲は妄想というのはそのとおりだと思います。私も昔は性的妄想を楽しんでしまうことがありましたが、今はかなり少なくなりました。単に加齢による性欲減退かもしれませんけど。
これはとにかく、妄想に飲まれることなく、気づいていくしかないのだと思います。

かつて、食欲、性欲は人間の二大欲望だと思ってましたが、ミャンマーでは・・
「食欲は、ある程度満たさないと飢えて死んでしまう。でも、性欲を満たして死ぬことはあっても、性欲を満たせず死んだ奴はいない。」というようなことをまま聞きます。
性欲なんて大したことないよという態度です。
これ聞いたとき、確かにそのとおりなんだが、こんな考え方もあるのかとびっくりしたものです。
性欲には、強い決意で望み、あとは妄想の一つとして粛々と気づいていくしかないのだということと理解しています。


Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

コメントをいただきましてありがとうございます。

「性欲を満たせず死んだ奴はいない。」・・・本当にその通りですね。

世間では時々、「性欲は“人間の欲求”なのだから食べたり飲んだりするのと同じで、深く考えなくてもいいんだ」などと言った言葉が聞かれますが「性欲を満たせず死んだ奴はいない」わけですから、やはり単なる言い訳のように思えます。

これは私の所感ですが、今の日本は、邪な“性欲”というものに対して比較的寛容になってきているように感じます。しかし、その反面トラブル、すなわち苦悩が厳としてあるのだということを覚悟すべきだと思うのです。というより、知るべきだと思うのです。

さて、「性欲なんて大したことないよという態度」・・・こういった姿勢は、私がタイで出会ったなかでは、サーマネーン(沙彌)の頃から長く出家生活を送ってきた比丘達に多かったように思います。それは、はじめから危うきに近寄ずいて来なかったから、あるいははじめから妄想であると知らされてきたからなのかなと思ったことがあります。一度触れてしまったら、容易には抜け出すことができませんし、何でもそうですが、最初から知らなければこれほど楽なことはないと出家中によく思ったものです。これも、性欲に悩まされていた私の勝手な所感ですが。

「性欲なんて大したことないよという態度」・・・私もそうありたいものです。
このことについては、少々感じたところがありましたので、次回の記事にさせていただこうかと思っております。そちらも併せてご覧ください。

いろいろと思うを書きましたが、結局のところは、「私の気づきがなされていない。」、ただそれだけのことです。きちんと正体を見破っていれば、いつでも、どこでも穏やかに過ごすことができるのですから。
「妄想の一つとして粛々と気づいていくしかない」・・・本当にこの一言に尽きると思います。

毎回、自己を見つめさせていただけるコメントをありがとうございます。

今後ともよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

失礼なコメントになってしまったらすみません。
私は女性ですが、ショックを受けました。
昔、男友達が「今の僧侶は結婚なんかしてけしからん」とものすごくいきまいていて、「そんなに怒るほどのことか?」「禁欲がそんな辛いものか?」と不思議に思っていました。
街で着飾った魅力的な男性を見ても、「趣味が良いな」「綺麗な顔立ちだな」とうっとりすることはあっても、性欲なんか感じません。
これを読んで、着飾って外に出ることに若干、恐怖や嫌悪感じました。
私が無知だっただけなんですけど。現実はそうなんですね。

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

私のほうこそ、女性の方にとって不快と感ずるような記事となっていますようでしたら、大変申し訳ございません。ひとえに私の表現力の欠如に端を発するものです。
まず、何に執着を感じるのかということは、人によってそれぞれ異なるものですし、私のような感情が全ての男性に当てはまるものではありません。また、女性に対してそれ程「性欲」を感じないという男性もいらっしゃいます。ここでは、あくまでも「私にとっては」であり、「私が」感じた正直な感情を綴ったものであるということを前提としてくださいますようにお願い致します。

正直に、単刀直入に申しますと、出家中に感じた性欲には相当なものがありました。性欲の問題は、私の出家生活の中で最もつらかったことのひとつだったと断言できるほどのものでした。タイの出家生活では、全ての性交渉だけではなく、自慰行為も禁じられていますし、女性に触れたり、女性と二人きりで会話をしたりすることもできません。
このように表現をしてしまっては、嫌悪感や恐怖感を覚えられる女性の方がおられるかもしれませんが、正直に申し上げますと、特に出家生活では性的な欲求を極限に近いところまで理性で押さえています。綺麗な女性が目に入れば、抱きたいと思います。性的な快感や快楽を味わいたいとも思います。その感情を過度に刺激されてしまいますと、感情が暴れ出してしまい、サティできる範疇ではなくなってしまいます。特に瞑想に慣れていない時期や、サティの力が育っていない時には相当辛いものがあります。(・・・余談ですが、出家生活が耐えられなくなったり、戒律が守りきれなくなったと思えば、その時はみんな還俗をしていきます。)

性欲は、ひとえに妄想の産物であると言えるかと思います。身近な例で言えば、好みの女性には興味が湧くけれども、好みではない女性には全く興味も湧かないし、視線すらいかない・・・これは、ただただ自己の感じ方・捉え方であり、感情であり、妄想しているに過ぎません。あの好みの女性を抱いたとしたら、どんなにか素晴らしい快感が得られるのだろうか・・・と。性欲の場合は、さらに感覚としての“快感”が加わるため、より強固な執着・妄想となってしまいますから厄介です。

227項目ある比丘が保つべき戒律の第一番目は、(相手が男女・動物を含む)あらゆる性交渉を持たないということなのです。もし、これを破れば比丘を辞めなければならない程の重罪とされています。逆を言えば、いかに出家生活にとって重大なことがらであるかということがわかると思います。
仏教の目的は、ものごとの真実の姿を知るということにあり、妄想を妄想であると知り、苦しみの本当の姿を知り、そこから離れるということにあります。ですから、敢えて妄想の中へと飛び込んでいくような行為からは離れるようにと教えているのでしょう。

いただきましたコメントに関しては、匿名様のご指摘の通りです。着飾った女性や性的な魅力のある服装の女性が目に入れば、やはり性的な感情が刺激されます。これが、今も私の心の中に蠢く性欲です。これは、出家であろうと、在家であろうと変わらないかと思います。サティの力を育てているかどうかです。
性欲・・・その感情自体を如何にして観察していくかなのでしょうね。どのような状況下にあろうとも常に「徹底的に観察していくしかない」の一言に尽きるかと思います。容易な作業ではありませんが・・・。

私は、こうした問題について、常々、女性からのご意見をおうかがいしたいと思っておりましたので、今回のコメントに大変感謝しております。女性の方々にとって、性欲とはどのようなものなのか。世間では、なかなか公にされることの少ない「性」に関する本音の部分を伺ってみたいと思っておりました。なぜならば、やはり男性と女性とでは性欲の感じ方やとらえ方が異なるでしょうし、仏教の実践という観点からのご意見を知りたいとの思いからです。貴重なコメントをいただきましてありがとうございました。
誤解を招きやすい事柄でもあります。私の正直な思いが伝わっておりますことを願っております。今後ともよろしくお願いいたします。