前回の記事と同じ、ある森の寺でのこと。
私と同時期に修行をしていたある比丘がいた。
とても修行熱心な比丘ではあったが・・・。
ある日、その比丘は、師との面談時に瞑想中の居眠りを指摘されたそうだ。
ところが、その比丘は、「居眠りなど全く身に覚えがない。」と言い張ったという。
とても修行熱心な比丘ではあったが・・・。
ある日、その比丘は、師との面談時に瞑想中の居眠りを指摘されたそうだ。
ところが、その比丘は、「居眠りなど全く身に覚えがない。」と言い張ったという。
決して居眠りなどしてはいないし、居眠りをした記憶もないと、そのように師に自信を持って強い口調で言ったのだった。
・・・実は、私も、その比丘が瞑想をしながら居眠っている姿を少しだけ見かけたことがあるのだが・・・
師は、やや呆れた表情をしながら、
「それならば一度“柱”に向かって座り、瞑想するようにしてみなさい。」
と、その比丘に指導したそうだ。
その比丘は、言われた通りに「柱」へ向かって座り、いつものように瞑想をはじめた。
面壁ならぬ、面柱だ。
すると、時間が経つにつれて、コックリ、コックリ・・・と、居眠りをし始め、そのうち「ガツン!」と柱に頭をぶつけてしまったという。
この出来事を通じて、その比丘は、自分の居眠りをやっと自覚することができたということであった。
・・・実は、私も、その比丘が瞑想をしながら居眠っている姿を少しだけ見かけたことがあるのだが・・・
師は、やや呆れた表情をしながら、
「それならば一度“柱”に向かって座り、瞑想するようにしてみなさい。」
と、その比丘に指導したそうだ。
その比丘は、言われた通りに「柱」へ向かって座り、いつものように瞑想をはじめた。
面壁ならぬ、面柱だ。
すると、時間が経つにつれて、コックリ、コックリ・・・と、居眠りをし始め、そのうち「ガツン!」と柱に頭をぶつけてしまったという。
この出来事を通じて、その比丘は、自分の居眠りをやっと自覚することができたということであった。
たいそう恥じいったそうだと聞いている。
何を言われても自分の居眠りを決して認めない比丘に対して、こうした方法で自分の居眠りに自分自身で気づかせる、というこの策に私は、「さすがはアーチャン(=先生・師匠)だ!」と思った。
笑い話のようであるが、本当の話だ。
周囲から見ると、明らかに居眠りをしていたとしても、当の本人としては真面目に居眠ってはいないと言う。
しっかりと瞑想しているつもりであっても、全く気づかないこともあるということなのだろう。
眠気を少しでも感じたのであれば、早めに対処しておくべきだ。
もし、眠気をそのまま放置すれば、例の比丘のように睡眠に入ってしまう。
さらに眠気の勢いは増し、襲いかかってくるからだ。
眠気を感じれば自由に対処することができる。
もし、眠気をそのまま放置すれば、例の比丘のように睡眠に入ってしまう。
さらに眠気の勢いは増し、襲いかかってくるからだ。
眠気を感じれば自由に対処することができる。
それが、タイのお寺での修行スタイルだ。
すぐに歩行瞑想に切り替えることができるし、歩く速度を自分で調整することも、サティの具合を調整することもできる。
それでも対処できないようであれば、顔を洗いに行くこともできる。
その点では、決められた時間内は必ず座っていなければならない日本のお寺の方が少々つらいのかもしれない。
その一方で、タイのお寺では居眠っていたとしても、誰も注意をしてはくれないし、「警策」もないので、自分でどうにかするしかない。
その点では、決められた時間内は必ず座っていなければならない日本のお寺の方が少々つらいのかもしれない。
その一方で、タイのお寺では居眠っていたとしても、誰も注意をしてはくれないし、「警策」もないので、自分でどうにかするしかない。
そういう意味では、タイのお寺の方が少々つらいのかもしれない。
両者を比較するわけではないが、日本のお寺は、瞑想の初心者にとっては非常に能率的な方法だと感じたことを覚えている。
多かれ少なかれ、誰もが睡魔には悩まされた経験があるのではないだろうか。
別のあるお寺では、ある比丘が瞑想中にコックリ、コックリしているのを見た私が瞑想指導者に、
「眠っているようですがいいのですか?」
と、問いかけた。
すると、その指導者は、
「それでいい。放っておきなさい。」
と言って、居眠りを咎めることも、注意することも、起こすことすらもしなかった。
私は、起こすことすらしないものなのかと少々驚いたが、自業自得の考え方が浸透しているタイでは、あまり他人のことには干渉しないものなのだと思っていた。
今にして思えば、居眠りを咎めなかったのは、そうしたタイ人の考え方のほかに、「自己の姿は、自己で観察せよ」との姿勢があったのかもしれない。
・・・と考えるのは、私の拡大解釈だろうか。
眠気はなかなか苦痛だ。
しかし、その苦痛をもありのままに観察しなければならないのであろう。
ただただ、今、ここに、ありのままの自己を観察することが大切なのだと思う。
あれやこれやといろいろ考えず、ありのままの自己をありのままに観察する。
仏教における瞑想は、「今、ここに、ありのままの自己を観察すること。」この一言に尽きるのではないかと私は思っている。
瞑想中、睡魔に襲われたとしても、誰も私に声をかけてくれることはない。
ただ一人で睡魔に立ち向かわなければならない。
心のどこかに影を潜めている私の「怠け心」にとって、タイのお寺はすこぶる居心地がいい場所なのかもしれない。
タイでの瞑想修行の厳しい一面である。
(『瞑想修行中の苦悩 ~眠気のエピソード~』)
両者を比較するわけではないが、日本のお寺は、瞑想の初心者にとっては非常に能率的な方法だと感じたことを覚えている。
多かれ少なかれ、誰もが睡魔には悩まされた経験があるのではないだろうか。
別のあるお寺では、ある比丘が瞑想中にコックリ、コックリしているのを見た私が瞑想指導者に、
「眠っているようですがいいのですか?」
と、問いかけた。
すると、その指導者は、
「それでいい。放っておきなさい。」
と言って、居眠りを咎めることも、注意することも、起こすことすらもしなかった。
私は、起こすことすらしないものなのかと少々驚いたが、自業自得の考え方が浸透しているタイでは、あまり他人のことには干渉しないものなのだと思っていた。
今にして思えば、居眠りを咎めなかったのは、そうしたタイ人の考え方のほかに、「自己の姿は、自己で観察せよ」との姿勢があったのかもしれない。
・・・と考えるのは、私の拡大解釈だろうか。
眠気はなかなか苦痛だ。
しかし、その苦痛をもありのままに観察しなければならないのであろう。
ただただ、今、ここに、ありのままの自己を観察することが大切なのだと思う。
あれやこれやといろいろ考えず、ありのままの自己をありのままに観察する。
仏教における瞑想は、「今、ここに、ありのままの自己を観察すること。」この一言に尽きるのではないかと私は思っている。
瞑想中、睡魔に襲われたとしても、誰も私に声をかけてくれることはない。
ただ一人で睡魔に立ち向かわなければならない。
心のどこかに影を潜めている私の「怠け心」にとって、タイのお寺はすこぶる居心地がいい場所なのかもしれない。
タイでの瞑想修行の厳しい一面である。
(『瞑想修行中の苦悩 ~眠気のエピソード~』)
4 件のコメント:
ブログ拝見いたしました。
瞑想を始める以前は、禅寺には警策というものがあって、怖くて嫌だなと漠然と思っていました。(ちなみに、警策のある禅寺には行ったことがないですが。)でも、瞑想を始めた頃、睡魔に襲われると、実は警策って、初心者にとってはとても親切なシステムだったのかもと思ったものです。睡魔を退散させるという意味では、警策というのは有効なのかもしれまんせね。
あと
タイのお寺の修行システムは、ミャンマーと似ているかもしれません。ミャンマーも瞑想修行は基本的には自己責任です。眠くても自力更生です。マイペースで修行を進めることもできるというと聞こえは良いのですが、結局はしっかりと自分を戒め、自己管理していかないといけないので、自己責任というのはやはり厳しい面があるのだと思う昨今です。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
集団で座禅する点や、一日の行動や時間が全て細かく決められている点なども、初心者にとっては、非常に親切だと感じました。
特に瞑想の生活が身についていないうちは、自分ひとりだけでの実践というのは、よほど強い意思でもって臨まなければ、なかなか困難なように思います。いとも簡単に自分の“怠け心”に負けてしまうのではないでしょうか。
森の寺などでは、クティ(個室/小屋)に一人籠ったほうが瞑想できるという人もいるとは思いますが、私の場合は、「クティで一人」瞑想するということはしませんでした。というより、できませんでした。自室では、なぜか気が抜けてしまったり、やる気が出なかったり、どうしても怠けてしまったりしてしまうのです。自室にどこか安心感というか、解放感のようなものがあるのでしょう。
瞑想場所が定められている場合を除いて、瞑想する時は、必ず自室とは違う場所で実践するようにしていました。できるだけ公共の場所で、かつ静かな場所を選びました。その方がはるかに集中できるのです。例えば、お寺の講堂や本堂などでです。
時々、タイのお寺は“ぬるま湯”だなどと言われますが、日常の生活も含めた瞑想実践のうえでは自己管理と自己責任の厳しさが問われるわけです。
情けないことに、やはり全く一人というのは、どこまでも怠けてしまうものだと思いました。
今後ともよろしくお願いいたします。
ミャンマーの瞑想センターでは、病気等の特別な理由がなければ、自室での瞑想修行はあまり行わないよう指導されていました。やはり、自室では甘えが出てしまい、瞑想もサボり気味というか、いい加減になってしまうのだと思われます。私自身も、自室での瞑想はほぼ行ったことなかったです。
タイのお寺は”ぬるま湯”というのは始めて聞きました。ミャンマーではそういう言い方は聞いたことないですが、たぶん、ミャンマーもどちらかというと”ぬるま湯”系だとは思います。ただ、あまりいい加減な修行していたり、悪態ついたりすると、お寺から追い出されますけど。(大概、瞑想ビザの延長が認められないという形が多い感じです。)
周囲の指導僧たちは、別に監視しているわけではありませんが、案外、我々修行者の一挙手一投足を観察しています。
やはり、”ぬるま湯”だからこそ、自己管理が重要に思います。
パーラミー様
コメントをいただきましてありがとうございます。
まさに、私もパーラミー様のおっしゃる通りだと思います。
実は、“ぬるま湯”という表現は、タイのお寺を知る日本人が言った言葉です(説明不足でしたね。)。私としては、もちろん心地のよい言葉ではなかったのですが、おそらく彼は、禅宗の僧堂ような生活を想定していたのではないかと思います。時間や行動、ひとつひとつの所作に至るまで、細かく定められている日本の様式と比較すると、やはり“ぬるま湯”なのかもしれません。しかし、もう一歩踏み込んだところを見て欲しかったなとも感じました。
私の知っている範囲ですと、瞑想センターのような性格のお寺ですと、瞑想場所は決められていました。一方で、森の寺のような性格のお寺ですと、比較的自由な雰囲気で、広い境内の森の中に点在している各クティで一人瞑想してもいいし、講堂などへ出て瞑想してもよく、まさにその人次第でした。
人によっては、瞑想をしっかりと身につけたうえで、森の寺へ行って生活を送るほうがいいのかもしれませんね。そこもその人次第といったところなのでしょうか。
指導者は、案外、観察している・・・思わず頷きました!
パーラミー様のコメントを拝見させていただき、ふと思い出したエピソードがあります。
毎日、同じ時間に、同じ建物で、同じ場所で瞑想している私を見た森の寺の瞑想指導者から「たいそう感心な生活態度の日本人だ。」と褒めていただいたことがありました。私としては、特に意識してはおらず、ごく普通に瞑想に取り組んでいただけでしたので、とても意外なお言葉に少し驚いたことがありました。
自己管理と自己責任、今の私の生活の中においても、しっかりと気を引き締めていかなければと改めて思いました。
大変貴重なお話をありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
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