タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2010/05/10

タンブン ~お布施~


お布施と聞いて、いいイメージを抱く日本人はいるだろうか?

おそらくいないのではないだろうか。

なぜなら、日本では、お布施とは喜んで行う行為ではなく、半強制的にさせられる行為だからだ。

お布施・・・「お葬式」「高額なもの」「寺からの割り当て」「強制的なもの」「寺への支払い」


「そんな言葉は縁起が悪い」


おおよそこのあたりのイメージではないだろうか・・・


誤解を招く表現ではあるが、少なからずそのような側面があるのは事実である。


しかし、タイ人は違う。喜んでお布施をする。

タイ語では、『タンブン』という。『徳を積む』という意味である。

早朝、町や村のいたるところでは、托鉢をする僧侶へ食べ物をお布施している風景に出会うことができる。

タイの人々は、いったいどのような気持ちでお布施をするのであろうか。


身内に不幸があったとき、身近な者の幸せを願いたいとき、自分の幸せやお願い事があるとき、何か罪に思うことを犯してしまったとき、気分が落ち込んでいるとき・・・など様々だ。

『徳』と『罪』は、プラスとマイナスで考えるとわかりやすい。

実際にタイ人もそのように考えているようだ。

罪を犯してしまったときは、徳を積んでその罪を消す。

いわゆる「罪滅ぼし」としてお布施をし、徳を積む。


プラス・マイナスで、まだまだゼロには達しえないと思えば、さらに徳を積んでプラスにするといった具合に、『徳』と『罪』を差し引きをして考える。

托鉢の時に食べ物をお布施するだけではなく、お寺に行ってお金をお布施してもいいし、町の中では僧のために席を譲ったりするなど、僧のためになることであれば何でもお布施であり、『徳』を積む行為であると考えられている。

それゆえ、人々は進んで僧や寺にお布施をする。

そして、徳を積む。


お布施をした人々は言う。


「サバイチャイ」


「サバイチャイ」とは、「すっきりとした気持ち」を意味するが、気持ちよかった、心の平安、安穏といった意味合だ。

こうしてタイの人々は、お布施をして、すっきりとした気持ちになり、そしてまたそれぞれの生活にいそしむのである。

この気持ちは、タイの人々の生きる力の根底を支えているものに感じられるのは、私の過大な感覚なのであろうか。



日本では、黄衣に身を包んだタイの僧と出会うことはめったにない。

たまに街角で日本の托鉢僧と出会う。

何宗の僧侶なのだろうか。禅僧だろうか・・・

私も、タイの地では人々からのお布施によって命をつながせていただいた。

托鉢僧を見ると、なぜかお布施をしたくなる。

いくらかを鉢の中に入れる。

僧によっては、小さな声で「ありがとうございます」とお礼を言ってくれる僧もいる。


チリン チリン・・・と鈴の音が鳴る。

私はこの瞬間、心に小さなやすらぎをおぼえた。


・・・タイ人の「サバイチャイ」とは、このような感覚なのであろうか。

お布施とは、まさに「喜捨」であるということが重要であるように思う。



(『タンブン~お布施~』)



◎無料メールマガジンを配信しています
メールマガジンのご登録は、下記のフォームからお願いいたします。


メルマガ購読・解除
タイ佛教修学記
  
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ



0 件のコメント: