タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2021/02/09

タイで出会ったちょっと厄介な修行者


今、Twitterでコー・ヒロ氏の『修行者列伝~ミャンマーで出逢った修行者たち~』というブログが大変面白いと話題を集めている。


このブログには、ミャンマーの瞑想センター(修行寺)で、実際にコー・ヒロ氏が出逢われた記憶に残る修行者たちが紹介されている。



ブログのトップには、サイトの紹介として、


『各地の瞑想センターで実際に出会った特筆すべき修行者たちを紹介しています。ひとりひとりの修行者から学ばせていただくことも多くあり、敬意をもってここに綴らせていただきます。(『修行者列伝』より)』


とある。



その詳しい内容については、『修行者列伝』をご参照していただくとして、私もタイで忘れられない修行者と瞑想修行をともにしたことを思い出した次第で、コー・ヒロ氏のご承諾をいただいたうえで、是非とも参照していただきたいと思い、ここにご紹介をさせていただいた。












さて、私がタイで出逢った忘れられない修行者のことを紹介させていただくこととしたい。


それは、ある森の修行寺で出逢った比丘で、出家者であるにも関わらず「物」に対して異常なほど執着していた比丘である。


森の修行寺であるので、ごく簡素な小屋に居住していたわけであるが、その小屋の中へと一歩足を踏み入れると、一体、どこから集めてきたのかわからないほど、一言で言うなら驚いてしまうほどの「物」で溢れていた。


聞けば、アチャン(アチャン:先生・指導者。ここでは、瞑想指導者である僧院長のこと。)から譲り受けた品々なのだそうだ。


アチャンは、不要なものは、惜しげもなくすぐに周囲の人へと譲ってしまう。


おそらく、そうした品々をひとつ、またひとつと譲り受けてきた結果なのだろう。



そればかりではない。


その比丘は、他の修行寺から移ってきた比丘なのだが、居住するお寺を引っ越すごとに「物」が増えているようで、これはどこでもらった物、あれはどこでもらった物といった調子で、いくつか私に説明を加えてくれた。


その物の数といったら凄いとしか言いようがなく、おそらく、整理整頓が苦手なうえに、収集癖があるのだろう。



これだけであれば、何もここで紹介するほどのことではない。


さらに厄介なのは、その比丘は他の修行者について、指導者でもないのに必要以上に指摘や批判を加えるとう点である。


私に対しても例外ではなく、容赦がなかった。



関わりを持たなければいいだけの話ではあるのだが、先方のほうから関わりを持ってくるのだから話はややこしい。


指摘や批判を加えるという性格からも容易に想像できるかもしれないが、同じ修行者に対してだけではなく、指導者であるアチャンに対してもそうであった。



以前、拙ブログの『修行中のエピソード ~眠気のエピソード~』において紹介をした自身の居眠りを絶対に認めなかった比丘と同一人物だ。


アチャンは、「そこまで言うのなら柱に向かって瞑想してみなさい」と指示したところ、案の定、その比丘は、すぐに居眠りを始めてガツンと柱に頭をぶつけ、やっと自身の居眠りを認めて、納得したというエピソードである。


この大変聡明な対処には、流石はアチャンだと私は心の底から唸った。



批判的なことは書かないことにしているのだが、自身のことは棚に上げて他者のことを指摘したり、批判したり、誹謗中傷したりする。


必要以上に他者との関わりを求めてくる。


さらに、高慢な態度や攻撃的な姿勢の数々・・・



かの比丘の周囲にいる私としては、やはり少々心がおだやかではなかった。



その比丘への批判としてではなく、あくまでも私自身の学びと学びの機会を与えてくれたことに対する敬意の念を込めて綴らせていただくと、一体、何のために修行をしているのだろうかという疑問の念にかられてくるというのが正直なところであった。











逆に私自身に当てはめてみると、自分の姿というのはなかなか見えづらいものだ。


おそらく、その比丘は、全て“よかれ”と信じてやっていたに違いない。



馴れ馴れしく私に近づいて来るのも、私のお世話をしてあげようという善意からだろう。


他者の批判や誹謗中傷は、その比丘としては、アドバイスや助言のつもりだったのだろう。


決して、悪意を持つものではない・・・はずだ。


教えを授けてくださった師に対しても、高慢な態度や攻撃的な姿勢をとるのは、単なる生まれもったごく自然な何気ない口調からなのだろう(・・・と思う)。



タイの修行寺では、「人のことに関わる前に自身のことに注意を向けなさい」ということを何度も何度も指導される。



その意味がよくわかるエピソードであった。


ただただ、私は私の修行を淡々と実践していけばよい。



そうした類の人とは、できる限り距離を置く。


幸いなことに、ある程度、それが実現できる環境であるところが、タイの森の修行寺のいいところだと思う。



今回、コー・ヒロ氏のブログを拝読させていただき、私の体験などコー・ヒロ氏の学びの深さには到底及ばないものの、似たご経験を綴られており、私にもそのような経験があったということを思い出した。



よく勘違いをされるのであるが、出家をしたら自身が抱えている問題や課題の全てが即座に解決すると思われているようであるが、全くもって解決されるわけではない。


出家をしたとしても、何も変わらないし、殊に人間関係からは逃れられない。


出家は出家の人間関係がある。



出家とは、出世間であるのだが、どこまで行っても“世間”の中の“出世間”なのだ。



今自分が抱えている問題は、出家後もずっと抱えていくことになる。



自身の問題を真正面から認識し、気づきをよくはたらかせて、どのように智慧を磨いていくのか。


ここが問われるのである。


そして、それは、全て自分自身にかかっているのである。



そのためには、いつも真摯に仏法に照らし合わせながら、また常に瞑想の実践に努め励んでいくべきであり、だからこその仏法と気づきなのだと改めて襟を正す思いだ。



“人の振り見て我が振り直せ”という諺ではないが、かの比丘とともに過ごさせていただく機会を得て、自身の行為・行動によく気づいたうえで、重々注意をしていかなければならないと深く感じた出来事であった。




この度は、ブログを紹介させていただくことを快諾してくださったコー・ヒロ氏に深く感謝いたします。


ミャンマーの特筆すべき修行者の方々が紹介されている『修行者列伝』をぜひご覧いただきたいと思う。



〇参照サイト


コー・ヒロ氏:

2002年からミャンマーへ移り住み、瞑想を中心とする生活を送られており、瞑想の楽しさを多くの方とシェアしていきたいとご活動されています。

(Twitter:@hiro_meditation)



『ミャンマーのシュエウミン瞑想センターより

マインドフルネスの本質がいよいよ明らかに!』



『修行者列伝~ミャンマーで出逢った修行者たち~』



(『タイで出会ったちょっと厄介な修行者』)







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