比丘の普段着は糞掃衣(ふんぞうえ)だ。
比丘が着ている衣は、一枚の布であると説明すると、必ずと言っていいほど驚かれる。
“着ている”と言うよりも、“纏っている”という表現のほうが適切だ。
さらに驚かれるのは、ひとたび出家をしたら、比丘である限り、ずっとこの一枚の衣をまとっていなければならないということだ。
日本のように、場所に応じて服装を替えることはなく、所謂、「私服」などといったものもない。
糞掃衣が比丘の“普段着”であり、また比丘の“正装”でもあるというわけだ。
すでに触れた通り、比丘の衣は、たった一枚の布をまとっているだけなので、すぐに着崩れる。
何度も整えなければならないわけなのだが、衣が着崩れやすいからこそ、自身の行為・行動によく気づきをはたらかせて、丁寧に観察することができるのだ・・・と、このように説明をされたことがある。
テーラワーダ仏教における瞑想は、全てが気づきと観察に帰結する。
だからこそ、比丘の衣は、敢えてそのようになっているのだという。
果たして、本当にその説明の通りなのかどうかという議論はさて置き、それはそれで納得の説明だ。
さて、そのような比丘の衣であるが、あらゆる方面において大変便利なものである。
例えば、外泊した時や、頭陀行などで屋外で眠る時には、掛け布団の役割を果たしてくれ、衣にくるまりながら眠るのだ。
瞑想する時には、虫よけとしてブランケットの役割を果たしてくれて、肩からかけて使うこともできる。
洗濯の際は、一切気を使うことなく、とても容易に洗うことができる。
干す場所も全く選ばないので、どこででも干すことができて、渇きもとても早い。
破れれば自分で縫って修繕するし、多少のほつれ程度はご愛嬌だ。
これといった特別な手入れや、特殊な管理も必要ない。
なによりも、今日は何を着ようかと考える必要性が一切ないというのが一番良い。
もっとも、このような服装ひとつで日常生活が成立するのは、年間を通して暑い気候であるタイだからこそ可能なことではあるのだが、比丘の衣とは、本当によくできたものだと感心させられるばかりである。
日本では、糞掃衣たる比丘の衣に当たるのが、「袈裟」である。
袈裟は、僧侶が身に着ける衣装として非常に大切なものとして扱われる。
袈裟をよく見ていただくと、細かな布を縫い合わせたパッチワーク風になっており、捨てられた布を縫い合わせて身にまとっていたブッダの時代の名残りをとどめている。
日本では、大変恭しく(うやうやしく)、かつ丁重に扱われる袈裟であるが、実は、タイではそれほど恭しく扱われているわけではないというのがとても意外なところであろう。
しかも、この事実に大変驚く日本人僧侶はとても多いと聞く。
それもそのはずで、日本ではなかば儀式用の衣装としての意味合いが濃厚だが、タイの出家生活では、袈裟は生活の中で着用するごく普通の衣類なのである。
出家生活上なくてはならない衣類だから、もちろん大切なものであることに違いはないのだが、私たちが普段着ている衣類を扱っているのと同様に、ごく日常のものとしての扱いなのだ。
これは、なかば儀式用の衣装としての性格を帯びている日本の袈裟に対して、タイでは完全に日常生活における“普段着”としての性格のものであることに由来するのではないかと思う。
タイの仏教においても、ブッダの時代のインドにおける「糞掃衣」とはやや遠いものとなってはいるが、まだその名残りを色濃くとどめていると言えるものなのではないかと思う。
(『比丘の普段着は糞掃衣』)
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