死ねば誰でも「仏」になるというのが、日本の一般的な認識ではないだろうか。
死人を「仏(ほとけ)」と表現することや、世間でこの世に未練を残さずに死んでいくことを「成仏する」と表現するのは、そうした認識から来ているのだと思う。
しかし、「仏」や「成仏」の意味を考えてみたい。
「仏」とは、悟った者、覚者、ブッダのことである。
「成仏」とは、悟りを開いて「仏」に「成る」こと。
つまり、悟りを開いて、覚者たるブッダと成ることだ。
ところで、タイのテーラワーダ仏教では、成仏するのではない。
テーラワーダ仏教における最終目的は、阿羅漢になることである。
仏と阿羅漢は、悟りを開くという意味では、ほぼ同義であるが、タイでは「死ねば誰もが悟りを開く」(≒「死ねば阿羅漢になる」)などといったことは、間違っても考えない。
タイ人からすれば、死ねば悟りの世界へ赴く云々などと言った話は、全く仏教を理解していない話だと一蹴するのではないか。
さて、それでは私たちは、死んだらどうなるのであろうか?
結論からいえば、「各個人の心の状態に応じた境涯に生まれ変わる」だ。
それ相応の場に生まれ変わるのである。
動物に生まれるかもしれないし、虫けらに生まれるかもしれない。
人間に生まれることができるかどうかはわからない。
これが、タイの仏教の共通理解である。
いや、タイの仏教だけではない。
日本の仏教を含めた、仏教全体の共通理解である。
ブッダが輪廻や生まれ変わりを認めたのかどうかという問題は、ひとまず置いておくとして、この世で悟ることができなければ、再び迷いの世界を経巡って、輪廻転生を繰り返すというのが仏教の基本的な理解だ。
悟りに向かって、善き行いを重ねつつ、徳を積みながら、自身の境涯を上げていく。
そして、少しずつ心を清らかにして、苦しみを減らす生き方に努めていくというのが仏教の生き方である。
日本の仏教の歴史の中では、時代が下るとともに、悟りに至るまでの期間が短くなっていく傾向にあるが、仏教は原則として、生まれ変わり死に変わりしながら、長い長い時間をかけて修行を行い、悟り至るというのが前提としてある。
今生において悟りを開くことがもっともベストな人生ではあるが、それができないから、さぁ、どうするかである。
今生で悟れなかったのであれば、再度、何かに生まれ変わってくることになる。
当たり前のことを、当たり前のこととして受け止めていくことをすすめているのが仏教である。
そして、今、自身が抱える問題をよく知り、どのように歩みを進めていくべきかを示してくれているものが仏教である。
日本の仏教の場合、宗派によって立場の相違があるため、仏教の共通理解というものを共有することがなかなか難しい側面がある。
しかし、これがテーラワーダ仏教も大乗仏教も共通した仏教の理解であるのだから、このことだけでも、広く共通の認識としてあっても良いのではないかと私は思う。
せめて、死んだら“天国”へ行くという理解は改めてほしい。
(『死んだらどうなる?』)
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