私がタイでお世話になった師がいつも口癖のようにして話していた言葉がある。
『私たちは、何の保障もない世界を生きているんです。
不確実な世界を生きているんです。』
「何の保障もない世界を生きる」
このように聞いて、何を感じただろうか?
このように聞いて、何を感じただろうか?
会社であるとか、組織であるとか、保険であるとか、貯金であるとか・・・
「私」を守ってくれそうなものは、たくさんあるかと思う。
また、それらを手に入れようと日夜必死になっている。
また、それらを手に入れようと日夜必死になっている。
どれも大切なものばかりだ。
日本で生きていくうえにおいては、きちんと考えておく必要があることばかりである。
ゆえに、これらのものが決して悪いものだとか、無意味なものだなどとは思わない。
ところが、少し冷静になって観察をしてみると、これらの「私」を守ってくれそうな存在とは、実に不確実なものばかりであるということに気づかされる。
必ず“保障”してくれて、絶対に“確実”なものという存在など、この世の中のどこを探しても何もない。
この動かし難い事実をしっかりと胸に刻みつけておくべきである。
全てが不確実で、何が起こるかわからないというのがこの世の中の“真実の姿”であるからだ。
その中を私たちは生きている。
ブッダの時代を生きた人たちはどうであっただろうか。
ブッダの時代の出家者たちはどうであっただろうか。
ふと、そのようなことを考えることがある。
思えば、会社であるとか、保険であるとか、そのようなものができたのはつい最近の話ではないか。
ほんの数代前の人たちの生活には、そのようなものは何ひとつなかったはずだ。
私たちよりもはるかに保障のない世界を生きていた。
タイの出家の世界は、私にそうした世界をほんの少しだけ自覚させてくれたように感じている。
自覚させてくれたと言っても、何の保障もない世界を生きているということくらいは、実は、誰でもわかっていることなのだ。
しかし、それは、頭で理解しているに過ぎない。
頭では理解しているはずなのであるが、なかなか受け入れ難く、本当の意味において、腑に落とすことができないのだ。
どうしても受け入れることができず、心の底からわかっていないからこそ、悩んだり、苦しんだりするのである。
この世界の真実の姿をよく知ろうとしなければならない。
この世界の真実の姿をよく知ろうとしなければならない。
そして、よく理解をしておかなければならない。
とは言え、実際のところは、「何の保障もない世界を生きる」ということに“徹する”ことは、かなり難しいことなのかもしれない。
しかし、私は、常にこの不確実な世界を観察し続けて、常に肝に銘じ続けていく姿勢こそが大切なのではないかと思っている。
だからこそ私の師は、いつも口癖のようにして言い続けていたのではないだろうか。
そして、真実の姿を観察し、洞察し続けていくことを忘れてはならないぞということを常に私に対して語りかけてくれていたに違いない。
・・・非常に勝手ながら、そのように感じてならないのだ。
今更になって師の言葉が・・・まるで師が私のすぐ横で話しかけてくれているかのように・・・私の中に蘇ってくるのである。
(『私の先生の口ぐせ』)
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