私は、時々、追いつめられたその時、しっかりと瞑想できるかどうかが「鍵」だと思うことがある。
・・・すなわち、客観的に自分を観察できるかどうか?
・・・冷静に感情の動きを洞察することができるかどうか?
追いつめられたその時、多くの場合は、瞑想どころではなくなってしまうのではないだろうか。
少し場面が違うのかもしれないが、取り乱した時やふと我を忘れそうになった時なども、一種の“追いつめられた場面”に含められるのではないかと思う。
こうした追いつめられた場面や冷静ではない場面の究極的なものが「死」の瞬間だろう。
私は、この瞬間に今生の全ての修行の成果が試されるのだと思っている。
日常生活のなかでは、大なり小なりこうした「瞑想どころではない」場面が多々あるはずだ。
・・・気持ちが乱れてしまって元に戻らない状態。
・・・感情の渦(うず)の中に呑み込まれてしまって、どうにもこうにもならない状態。
そういう時こそ、冷静さが必要なのであるが、実際のところは、なかなかそうもいかないというのが私たちの姿だろう。
私のタイでの瞑想修行のなかでも、どうにもこうにもならなくなった経験がある。
感情が止め処なく溢れてきたり、心が大きく乱れてしまったりした。
出家者の場合、戒律によって生活に制限が加わっている。
特に、森のお寺のような修行寺であればなおのこと。
できることは限られているし、精神的な逃げ場となるようなものがなにひとつない。
自己を観察するしかないような環境なのだ。
ゆえに、一旦、こうしたスランプに陥ると適切に対処しないと大変である。
当時、私に瞑想を指導してくださっていた長老(瞑想指導者)は、
「そういった時は、動的な瞑想に切り替えて実践してみなさい。生活そのものが瞑想なのだから。」
と助言をしてくださった。
すなわち、歩く瞑想などに切り替えて、観察を継続していきなさいということである。
動作を観察対象にすることで、妄想(=感情の渦巻き)が膨らんでいかないようするのである。
坐って、静かに瞑想するだけが瞑想ではないからだ。
しかし、そうは言っても、なかなか大変である。
自己の感情を観察し切れず、発狂しそうになったことすらある。
それもまた、ある意味では、追い詰められた状況のひとつなのかもしれない。
・・・瞑想していれば、必ずそういった壁はある。
出家の場合であれば、それを真正面から受け止めなければならないというだけのことだ。
しかし、それが、「出家する」ということであり、瞑想修行に専念できる環境に身を置くということなのだから、当然、覚悟のうえである。
そこは、やるしかない。
結局、私は、そうした荒れ狂う感情の濁流を観察し切れなかったから、還俗を決意するに至ったのかもしれないと感じることもある。
還俗を決意した理由は、いくつかあるのだが、もしも、自己の感情を冷静に観れて、観察に徹し切ることができていたとしたら、もう少し違っていたのかもしれないとも思う。
だが、その経験を踏まえたうえで、今、日本での生活の中で感じることは、出家も在家も、瞑想の本質的な部分で言えば、やはり、同じなのではないかということだ。
日本での日常生活の中でも、大なり小なり、どうしようもなくなってしまう程の大きな心の乱れはごく普通にある。
その時、客観的に観察し、冷静に洞察できているだろうか。
身の回りの環境は、大切である。
しかし、環境ばかりを整えたからと言って、その瞬間から完全になるということはない。
しかし、環境ばかりを整えたからと言って、その瞬間から完全になるということはない。
出家をしたからと言って、その瞬間に変わるわけではないし、突然、瞑想ができるようになるわけでもない。
「“瞑想した気分”になっている」ことが実に多い。
ここを勘違いする人は多いと思う。
だから追いつめられた時に、いとも簡単に崩れてしまうのではないだろうか。
日頃の小さな心の動きをはじめ、日常的な心の乱れを観察できないような者が、瞑想中に出会う大きな心の乱れを観察できるとは到底考えられない。
やはり、ひとつひとつ、目の前にある小さな課題を越えていかなければならないのである。
日々の積み重ね、たとえ日本にいたとしても、たとえ在家で生活をしていたとしても、こつこつと丁寧に観察をしていくことこそ、その次につながっていく道である。
今、この瞬間、今、目の前にあることをしっかりと観察をしていくしかないのだ。
どのような場面であっても、問題に出くわした時に本当の自分の姿が見えてくる。
追いつめられた時や、行き詰った時に、本当の自分の姿が見えてくる。
そのたびごとに、未熟な私の姿が突きつけられるのである。
常に試されている。
もちろん、今も。
(『追いつめられたその時、あなたはどうしますか?』)
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2 件のコメント:
ブログ拝見しました。
ミャンマーの瞑想センターで、「出家したほうが、瞑想が進むのではないか?」と尋ねていたヨギがいましたが、セヤドーが「瞑想するには出家も在家も関係ない」と答えていました。瞑想センターに籠ることで終日瞑想に専念できたり、出家することで在家の雑事からは離れられたりと、それなりのメリットはあるとは思いますが、在家であるために瞑想ができないということではありませんね。
日常生活での感情の波などは、ある意味、よい瞑想対象になり得るのではないかとも思ってしまいます。どんなに感情の荒波に飲まれてしまっても、その時は我を忘れてしまったとしても、諦めずにその感情を観察していくことが大切だと思います。
ご指摘のように、「“瞑想した気分”になっている」ことに気づかないことの方がよほど問題のように思われます。兎にも角にも、心身に生じるあらゆる現象に気づいていくことが肝要かと。
何があっても、Never Give Upだと、言い聞かせています。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
ミャンマーの瞑想センターでの学びは、大変素晴らしいですね。私は、日本へ帰ってから何年もしてからしか気づくことができませんでした。それは、「腑に落とす」ことができなかったからなのかもしれません。あるいは、もしかすると、私自身も、自分ではそうではないと思っていたとしても、どこかで「瞑想した気分になっていた」ところがあったのかもしれません。
日常生活の中では、嫌なことや苦しいことがたくさんあります。気がつくと、観察することから離れてしまっていることも多々あることかと思います。しかし、そこで「観察なんて無理だ」と言って止めてしまってはそれまでです。とても大変な作業なのかもしれませんが、継続していくことが大切だと思います。
ミャンマーの瞑想センターでのご指導、そして実践、学び・・・どれをとっても非常に素晴らしいですね。日本での生活にも十分に活きていると感じました。
コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
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