お布施という言葉にあまり良い印象を抱かない方もおられるかもしれない。
お布施とは、お経を読んでもらったことに対する「対価」であったり、所属の寺院から求められる寄付の「割り当て金」であったりもする。
また、托鉢の僧侶へも「お金」をお布施する。
ともあれ、お布施とは、「お金」のことを指す。
タイでは、「お布施」とは、「お金」であるとは限らない。
と言うよりも、お金ではないことも多くあるといっても過言ではない。
托鉢の比丘へは、その多くは「お金」ではなく、「食べ物」をお布施する。
寺へのお布施としても、やはり「食べ物」、すなわち「料理」がお布施される。
比丘は午後に食事を摂ることができないため、料理をお布施する際には、午前中にお布施されることが多い。
ちなみに、寺(サンガ)へのお布施としては、「食」、「衣」、「住」に関する資具と、「薬」の4種類のものをお布施する。
この中で薬とは、日本の感覚からすると、少々不思議に思えるものであるが、出家生活の中で体調を崩したり、病気になったりした時のためのものである。
ゆえに、「薬」だけは、例外として、比丘が午後であっても口にできるもののひとつとされている。
確かに、タイの寺では様々な種類の“薬”がたくさん常備してあるのをよく見かける。
それらは、そういった意味合いのものであり、お布施された品々なのであろう。
このようにタイでは、日本のように「お布施」=「お金」ではない。
ところで、比丘は、戒律によって金銭を所持することが禁じられている。
この戒律は、タイ人であれば誰もが必ず知っていることがらだ。
ところが、お金のお布施が全くないのかと言えば、必ずしもそうではない。
タイの出家生活では、戒律の通り、お金のやり取りというものは、“原則として”は“ない”のであるが、実際には多少の金銭のやりとりは“ある”というのが実情だ。
托鉢時には、10バーツ硬貨や20バーツ紙幣を鉢の中へと入れてくれる人もいる。
この景色だけをとれば日本の托鉢の景色と同じである。
町の寺では、比較的戒律の運用に関しておおらかであるので、比丘であっても少額の金銭を所持している場合が多い。
しかし、できることならば、出家者は金銭を所持することから離れたほうがいいということは言うまでもない。
これもまた、タイ人であれば誰もが必ず心得ていることがらである。
その姿勢は、出家生活の至るところで垣間見ることができる。
比丘に必要な物品がある場合には、在家の者が積極的に用意をしてくれる。
あまりに積極的に用意をしてくれるものだから、日本人的な感覚が残る私には申し訳がなくてたまらなかった。
どうしても金銭に触れなければならないことが発生した場合の金銭的なやりとりは、多くの場合は、在家者が仲介して対処する。
在家者がいない時には、見習い僧であるサーマネーン(沙彌)が仲介して対処する。
さらに多額のお金を管理する場合には、完全に在家者が管理を行う。
寺には、多くの場合、寺を管理・統括する在家者がおり、住職など比丘の意見を交えて運営されており、比丘は直接金銭に触れることがないように配慮されている。
それゆえ、比丘は直接お金に触れることなく、できる限りお金と距離を置いた生活が保たれているのである。
~タイの絵葉書より~ 出家式直後のお布施の風景であろうか。 毎朝の托鉢の時、この鉢を携えて町や村を歩く。 出家式を終えたばかりの比丘へのお布施が最も功徳があるとされている。 |
タイの僧院生活では、原則として金銭に触れることは禁じられている。
比丘であれば、そばに在家者を置くなどして、物品の購入をまかせるというのが一般的だ。
戒律に厳しい寺院や森の寺などでは、実際に金銭に触れることはない。
しかし、タイ全体から言えば、多少の金銭所持であれば認められている場合が多い。
そこで「なんだ、結局は形式だけのものなのか」と思わないでいただきたい。
多少の金銭所持が許されているとは言いつつも、タイの社会では出家者(比丘・沙弥)は金銭の所持から離れるべきであると認識されており、できる限り戒律の順守が保てるように支援をするということが在家者の努めであり、「徳」になる行為であると認識されている。
ゆえに積極的に出家者に対して支援もするし、必要な生活用品の用意もするのである。
そうした在家の人々の支援によって、出家者が戒律をできる限り順守できる環境が現在でもよく保たれているという点に注目して欲しいと思う。
お金と日常生活は、一体であると言っても過言ではない現代社会。
また、実にさまざまな物品に囲まれた物質社会は、まさに「お金」に支えられている。
いや、お金に“支配”されているといっても過言ではない。
果たして、お金に触れない日が一日でもあるだろうか。
私達とお金とは、もはや切っても切れない間柄だ。
では、そのお金とは、果たして何者なのだろうか?
お金とは、必要不可欠なものであり、大切なものなのだろうけれども、お金“そのもの”が命をつないでくれるものではない。
すなわち、直接、「生命」に関わるものではないのだ。
お金とは、単なる一定の「価値」を示すものである。
その一定の「価値」を扱いやすく、目に見えるように、わかりやすく“概念化”したものだ。
社会の共通した“約束事”を“概念化”したものであるとも言えるのだろうか。
それが「お金」だ。
単なる世間の“約束事”でしかないわけである。
この約束事が崩れ、価値が崩れれば、一瞬にして紙切れとなり、なんの意味も持たないただの「物」となってしまう、それがお金というものの正体なのだろう。
しかし、お金は、日常生活の中では必要不可欠なものだ。
お金を欠いては、生活が成り立たない。
特に日本では・・・。
一見すると背反することのようでもあるが、お金というものの正体を正しく理解しておくこと、そしてそうした概念の中で私達は生きているのだという事実を正しく知っておくことこそが大切なのではないかと思う。
その概念から完全に抜け切ることなど容易ではない。
だが、その事実を知ることで、より楽に、そしてより冷静になれるような気がするのだ。
「概念」を“概念”であると気づき、正しく知ること。
そこが大切なのだと思う。
在家の立場であれば、お金というものとより良くつき合っていける智慧を身につけることも非常に大切になってくるのではないかと思う。
それだけに、たとえ短期間であっても出家を経験するという一時出家の意義は甚だ大きいと私は感じた。
おおよそ、今の私の身の回りにあるものの所有が認められない出家の生活。
お金に触れることも、所有することも認められない出家の生活。
出家の生活とは、命をつなぐために必要最小限のことと、ごくわずかなその周辺のものしか所有が認められていない生活だ。
出家生活での学びを日常生活のうえで実践し、活かしていくことができれば、決して道を誤まることはないだろうと思う。
出家の生活は、ブッダの智慧を身をもって学ばせてくれているものなのではないか・・・私にはそう思えてならない。
※戒律については、さまざまなご意見があるかと思いますが、ここでは私が聞いたことや感じたことなど、私自身の体験を記述しています。
(『お布施とお金からの学び』)
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2 件のコメント:
ブログ拝見いたしました。
比丘とお金の関係って、考えさせられました。
タイやミャンマーなどでは、お寺にいる在家の世話役に金銭授受を行ってもらえますし、在家の方でも比丘が戒律違反にならないよう配慮してくれますから、戒律厳守も可能だと思います。しかし、日本や米国などにいらっしゃるテーラワーダ比丘は、どうしても自ら金銭を取り扱わざるを得ない状況がままありそうです。私が知っている米国在住のミャンマー人比丘は、郊外にお寺があるので、自ら自動車を運転せざるを得ませんでしたし、それに伴ってガソリンスタンドでの支払いも自ら行わなければなりません。金銭授受ではありませんが、私自身も米国のミャンマー寺で夏期に2週間ほど短期出家したとき、ニューヨークに出掛けるときは、袈裟の下にTシャツを着るように言われましたし(袈裟の乱れを人前で直そうとすると、素肌の上半身を露出させることになってしまうことや、緊急時対応のためのようです。米国では、比丘はGentlemanでなければならないと言われていました。)、お寺には世話役もいないので、食事の調理も自ら行わざるを得ません。異文化の中での戒律厳守は非常に困難であることを目の当たりにしました。
でも、戒律を厳守できる環境にいるよりも、より戒律の意味を深く考えざるを得ないかもと思ったものです。実際、米国在住の比丘たちも破戒僧という感じではないですし、かえって、金銭への執着はない感じでした。
戒律を守ることも大切ですが、戒律の持つ意味を理解していくことも大切なのではないかと思った次第です。
お布施とお金の話題から脱線してしまったようで済みませんです
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
私がタイへ渡る前、ある方から「タイは、三宝が生きている国」という言葉を聞きました。実際にタイという国に触れ、実際にタイのサンガに触れてみて、まさに「タイは、三宝が生きている国」なのだなと、私もしみじみと感じました。この言葉の通り、社会の構造自体がそのようになっています。しかしながら、日本を含めた異文化の中では、戒律の順守を貫いていくことは大変な困難であることも確かです。非常に難しい問題ですが、そのなかで、戒律の意味を聞き開き、瞑想することと照らし合わせてみれば、その意義が明らかなものとなるはずなのですが、ただ単に「守る」ことだけに終始していては、本来の意義は見えてこないように思います。この点は、パーラミー様がおっしゃる通り、とても大切なことだと私も感じているところです。
異文化の地で、今はまだ細々とでしかないのかもしれませんが、仏教が広まりつつあることは、仏教を拠り所として生きる者にとって、とても喜ばしいことであると思います。
日本には、日本人のための日本人による本格的なテーラワーダ仏教サンガというものがまだありません。いつか日本も「三宝が生きている国」であるといわれるようになるといいものだと思う今日この頃です。
貴重なお話をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
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