それを決意させるもう一つの理由があった。
父との問題は、前回までの記事で書かせていただいた。
もうひとつの大きな問題。
一言では言い表せないが、あえて言葉に表現すると、「出家生活と在家生活との違いと、心が乱れた時の対処」であろうか。
不安、怒り、嫉み、憎しみ、いらだち・・・日常生活の中では、さまざまな嫌な感情がある。
嫌な感情ばかりではない。
喜びや快楽・快感などの感情も心を乱す感情のひとつである。
そのような感情が沸き立ってきた時にはどう対処をしたらよいか。
それは、瞑想することによって、心の動揺を単なる「心の動揺である」と気づき、それ以上つかんでしまわず、今ある自己の姿を知り、“観る”のであった。
どこまでも冷静に、どこまでも冷徹に、そしてどこまでも客観的に揺れ動いている「自己」を観なければならないのであった。
出家といえども、やはり自己の心の中でうごめく感情のコントロールが問題となる。
それは当然だ。
出家生活の中においても、自分の思い通りになることばかりではない。
これもまた当然のことだ。
感情の波は、出家していようがしていまいが人間である以上起きるものである。
人間であるから感情がある。
感情があるから人間である。
それが人間だ。
だからこそコントロールが難しいのだ。
人は、誰もが「人生の癖」を持っているのではないかと思う。
出家生活とは、ひらたく言えばそうした「人生の癖」を矯正するトレーニングであると言えるのではないかと私は思う。
その「人生の癖」とは、人それぞれに異なるだろう。
怒りっぽかったり、嫉みっぽかったりと。
だからこそ、汚い言葉や悪い言葉を言ってはいけないのだ。
嘘や盗みをはたらいてはいけないのだ。
日常的にそれらを繰り返してしまうと、知らず知らずのうちに習慣となってしまい、癖となってしまう。
そして、やがては「人生の癖」となってしまい、悪しき方向へと向かっていってしまうのだ。
それゆえに戒律があるのであり、瞑想をして自己と向き合い、自己の姿を知らねばならないのである。
よくよく自分の日常生活を観察してみると、やはり自分の癖というものがあり、それが人間関係をはじめ、日々の言葉や行動、考え方などに影響していることが見えてくる。
この「人生の癖」をなくし、善き方向へと導いていくのに最も適し、最も合理的であるのが出家というクローズな空間なのだと思う。
自己の感情をうまくコントロールし、うまく付き合っていく訓練をしていくことこそ本来の出家生活であるが、単に出家をして、単に寺の中で生活しているのであれば、在家生活であっても可能ではなかろうか。
もちろん、先述の通り、出家生活のほうが悟りに向かう道としては、最も近道で、最も合理的で、最も確実な道であろう。
さらに、瞑想や仏教教学の修学に集中できる環境であり、専門として、言い換えれば生業として専念できる環境であることは言うまでもない。
そのような意味で、出家のほうがベストに決まっている。
しかし、突き詰めてゆくと在家生活であっても、変わりなく求めることができるのではなかろうか。
そう思うに至った。
非常に高いレベルの境地を求める段階となれば、やはり出家しかないのかもしれないが・・・。
在家生活は煩わしいことばかりである。
仕事もある。生活もある。
嫌なことでもやらねばならない。
他人から腹の立つことも言われなければならない。
仏道に専念などできようはずがない。
ところが、それとて出家生活においても同じだ。
出家生活においても人間関係もあれば、嫌なこともある。
腹立たしいことを言われることだって当然あるに決まっている。
うごめき、暴れまわる自己の感情をコントロールし、うまく付き合わねばならない。
これが最も難しく困難なことだ。
自己の感情が乱れれば、世界が乱れる。
自己の感情から全ての見方が始まっているのだから。
在家生活であっても仏教の生き方は可能かもしれない。
在家生活で可能な仏教の生き方を求めてみよう。
そう感じた。
これが父の問題も抱えていた私にとってのもうひとつの揺れる心であった。
そして、還俗へのもうひとつの理由であった。
(つづく 『還俗』)
(『もうひとつの揺れる心』)
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