タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/01/22

変わりつつあるタイの出家生活

今、タイの出家生活は大きく変わろうとしている。

私はそのように感じたことがあった。

発展が著しいタイ。
目まぐるしく変化していく。

それは、日本もタイも同じだ。

テレビ
DVD
パソコン
メール
携帯電話

現代日本の生活では、どれも当たり前のものばかり。

これらはもちろん、タイの僧院においても日常のものとなりつつある。

特にテレビは寺の間にも広く普及しており、パソコンやメールも広く普及している。
携帯電話も今や誰もが持っている。

ある森の寺のように、あえて電気を引かないような、いわゆる「世俗的」なものをできるだけ遠ざけ、修行や瞑想に適した環境作りに努めている寺もあるが、それはごく少数である。


寺の中において、普通にテレビを見ているぶんにはどのような内容の番組を見ていようとおおむね許容される。

インターネットやメールも許容されている。
パソコンも情報処理のうえでは必要不可欠なものになりつつある。

つまり、どのようなページであっても見ることが可能だということであり、誰とでも連絡が可能であるということでもある。

一切は自己の判断に委ねられているのだ。
携帯電話も同様だ。

本来であれば、出家後は携帯電話も持ち込んではならない。
必要のないものであろう。
しかし、出家後も継続して持ち込まれることも多い。
一方で出家後に新たに携帯電話を持つ者もいる。

日進月歩で進化し続けるパソコンや携帯電話。

日本の状況を考えてもわかる通り、一昔前では全く考えられないようなトラブルが潜んでいる。

タイの出家生活においても同様であろう。


戒律の中に記載や規定がないものは、基本的には「可」とされる。
典型的なものは「タバコ」である。
戒律には喫煙についての記載がなく、「不可」とはされていない。

喫煙は、寺院単位で禁止しているにとどまり、比丘の喫煙が全面的に禁止されているというわけではない。
戒律違反ではないが、好ましい行為であるとはされてはいない行為のひとつとなっている。

テレビやDVDは、言うならば「歌舞演劇の鑑賞」とも言えなくもないが、「不可」とはされてはいない。
歌舞演劇の鑑賞だけにとどまらない。
テレビをはじめDVDやインターネットには“よからぬもの”も含まれていることがあるかもしれない。
もちろんあからさまには見ないであろうが・・・。

戒律に規定がないものは、このように寺院単位で戒律や比丘の生活に照らしての判断や社会通念上の道徳や価値観に照らして判断されている。


私は、日常の生活から離れるからこその解放というものがあるように感じている。
また、瞑想にとってはそのような静寂な環境が非常に大切である。

タイにはインド以来の素晴らしき出家の伝統と生活が守られていると感じている。
その出家生活のひとつひとつに意味がある。
変えてはならないところは決して変えてはならないと思う。
これからも是非とも受け継いでいって欲しい。


忘れそうになった時に、間違えそうになった時に、そしてわからなくなってしまった時に立ち返ることができる場所があるということは非常に大切だ。

その立ち返るべき存在、それこそがサンガであると思う。

現代の生活と出家の生活。
出家生活における現代的生活を否定するわけではない。

しかし、現代的生活に出家生活が飲み込まれてしまうのではないか・・・。

一抹の不安を感じた。


変化の流れが著しい現代。
発展が著しい現代。
変化の時代といってもいい。

時代の変化にどう対応していくのか。

これも諸行無常ということなのか。


上手く調和しつつ、発展していくことを信じている。



(『変わりつつあるタイの出家生活』)



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5 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

はじめまして。

時々、ミャンマーへ瞑想に行っていますが、ミャンマーの寺院もいずれタイの寺院と同じような感じになっていきそうな気がしています。ネット環境はタイよりだいぶ遅れているようですが、裕福なお寺では、携帯電話所持も多くなっていますし。寺院も時代の波に飲み込まれて変容していくのでしょうか。修行の良き伝統が変質していくようで、ふっと一抹の不安を感じることがあります。

Ito Masakazu さんのコメント...

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。また、コメントをいただきましてありがとうございます。

一抹の不安を覚える一方で、しっかりと仏教や瞑想の本質、そしてそれらの伝統を正しく理解している若いタイ人も多いので、伝統を守りつつ時代ともうまく調和していくのではないかとも思うのです。男子であれば一度は出家をするという環境のなかで、本質がしっかりと次世代へ伝えられているのでしょう。とても素晴らしく、いいところだと感じました。
しかしながら、パソコンや携帯電話などの電子機器の急速な普及は非常に危険なように思います。記事には書いていませんが、性的な描写とも容易に触れることができますし、仮想の世界へも行けるわけです。当然、瞑想の妨げともなります。近年における日進月歩の電子機器の数々との共存・・・そのような環境の中で自己の妄想を見抜いていかなければならないわけです。
この先、森の寺と町の寺との役割分担がさらに進んでいくのでしょうか。

タイでの出家生活、特に森の寺での出家生活は、まさに経典に記述されているような世界です。おそらくミャンマーにおいても、そうした生活が受け継がれていることと思います。こうした生活がこの現代においても、実際に続けられており、さらに、頭陀行の比丘(遊行僧)がいたり、人里離れた山奥の庵ともいえる寺に居住している比丘がいたりします。お顔を拝しただけで、是非とも教えを請いたいと思えるような方がたくさんいたことを覚えています。
・・・日本では、すでに書物のうえでしか出会えないようになってしまっています。そうなってほしくはないですよね。

今後ともよろしくお願いいたします。

パーラミー さんのコメント...

ご丁寧なお返事ありがとうございます。

かつてタイの森林僧院を行脚されたイギリス人比丘から、タイの森林僧院には、真摯に修行を続ける比丘方がけっこういらっしゃるとは聞いていました。ぜひそうした森林僧院も訪ねてみたいと思っているのですが、なかなか実現できないでいます。

ミャンマーには、多くの瞑想センターがあり、在家を含めた瞑想修行者の裾野は広いと思っています。いわゆる瞑想寺と学問寺、それに各村落にある地域のお寺といった3つにカテゴリー分けができるかもしれません。でもなぜか、タイのように人里離れて修行に打ち込む森林寺院や頭陀行の比丘というような存在をあまり聞いたことがなく、実態はどうなのか気になるところです。そういう比丘方は雑踏の中には出てこられないでしょうから、単に私の情報不足だと思いますが。
いずれにしても、真摯な修行を継承する比丘方の存在は大切だと思います。

匿名 さんのコメント...

すみません。また質問メールさせてもらいました。

Ito Masakazu さんのコメント...

バーラミー様
コメントのご返信ありがとうございます。おっしゃる通り、タイにおいても出家・在家を問わず、瞑想修行者の裾野は非常に広いと感じました。私は、縁あって森の寺に滞在していた時に行脚中の頭陀行者と会うことができました。また、人里離れた山奥で生活を送る比丘のところへ連れて行っていただく機会とも出会えました。私もそうした機会がなければ、聞いているだけで直接お目にかかる機会はなかったかもしれません。タイでは本気で求道の意思があれば、そういった道を歩むことが可能なのです。そして、それらを応援し、敬意をもって接する土壌があります。まさに「篤く三宝を敬う」精神が生きている国だと感じました。さらに、たとえ外国人であっても法を求め、師を求め、あるいは自分に合った修行環境を求めて行脚することも受け入れてくれます。コメントにいただきましたイギリス人比丘の方もそうした一人だったのではないでしょうか。ぜひともミャンマーのお話も聞かせていただきたいと思います。