帰国の挨拶をするために。
久々の再会である。
その彼もすでに還俗をしていた。
そう、今ではお互いに俗人だ。
私も彼も。
彼は、タンマユット派の寺の出身で、私達が出会った寺では、寺併設の学校で教鞭をとっていた。
サーマネーン達に英語と仏教を教えていた。
まじめで、やさしい人柄の人物だ。
少年の頃より出家し、寺で学び、大学を出て教師の資格を取ったのだという。
英語を教えているだけあって、英語が得意のようだ。
観光でタイを訪れる多くの西洋人観光客にも流暢な英語で話す。
日本人の友達もいるんだと得意げに話してくれた。
彼には、とてもお世話になった。
久しぶりに顔を合わせた。
タイ語がうまくなったなと言ってくれた。
出家中は、歩くことのなかった夜の屋台を歩きながら様々なことを話した。
そして、寺では食べることのなかった夕食をともにしながら歓談した。
そんな歓談のなかで・・・
彼には最近、親しい友人との離別があったということを私に話してくれた。
どのように言葉を返してよいか戸惑う私の姿を見てか、すかさず彼が言った。
マイペンライ。
全く気にしてないさ。
もちろん悲しいし、ショックな出来事だ。
でも大丈夫。
わたしは、ダンマ(仏法)を知っている。
今までしっかりと瞑想を実践してきた。
手放す生き方を知っている。
客観的に見る生き方を知っている。
だから平気なんだ。
でも、もしダンマ(仏法)を知らなかったら、いつまでも落ち込んでいたままだっただろうな。
彼は笑顔で私にこのように語ってくれた。
顔の表情から、嘘ではなさそうだ。
本心から言っている。
仏教とその生き方は、還俗後もしっかりとタイ人の生きる指針となっているようだ。
出家と在家は大きく異なる。
出家はひたすら「悟り」目指し、ひたすら阿羅漢を目指す。
在家は、法により沿い、法にしたがってよりよく生きる道を目指す。
その先は、どちらも「悟り」であるが、その立ち位置が違う。
一見すると全く異なった道を歩んでいるかのようである。
全く異次元の世界を生きる生き方のようでもある。
しかし、どちらも「悟り」の階段を登っていることに違いはない。
大きなダンマという流れの中でみれば、どちらも仏教を生きている。
はるかかなたにある目指すべき場所は同じである。
タイ人のなかには、還俗後も、それぞれのなかで仏教的生き方がしっかりと根付いているようだ。
それは、一時的な出家生活であったのかもしれないが、その中で培われた生き方はとても大きいと感じた。
(『仏教的生き方』)
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