タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2013/01/14

仏教的生き方


還俗後、とある寺で非常にお世話になった比丘仲間を訪ねた。
帰国の挨拶をするために。

久々の再会である。
その彼もすでに還俗をしていた。
そう、今ではお互いに俗人だ。
私も彼も。

彼は、タンマユット派の寺の出身で、私達が出会った寺では、寺併設の学校で教鞭をとっていた。
サーマネーン達に英語と仏教を教えていた。
まじめで、やさしい人柄の人物だ。

少年の頃より出家し、寺で学び、大学を出て教師の資格を取ったのだという。
英語を教えているだけあって、英語が得意のようだ。
観光でタイを訪れる多くの西洋人観光客にも流暢な英語で話す。
日本人の友達もいるんだと得意げに話してくれた。

彼には、とてもお世話になった。

久しぶりに顔を合わせた。
タイ語がうまくなったなと言ってくれた。

出家中は、歩くことのなかった夜の屋台を歩きながら様々なことを話した。
そして、寺では食べることのなかった夕食をともにしながら歓談した。

そんな歓談のなかで・・・

彼には最近、親しい友人との離別があったということを私に話してくれた。

どのように言葉を返してよいか戸惑う私の姿を見てか、すかさず彼が言った。


マイペンライ。
全く気にしてないさ。
もちろん悲しいし、ショックな出来事だ。
でも大丈夫。
わたしは、ダンマ(仏法)を知っている。
今までしっかりと瞑想を実践してきた。
手放す生き方を知っている。
客観的に見る生き方を知っている。
だから平気なんだ。
でも、もしダンマ(仏法)を知らなかったら、いつまでも落ち込んでいたままだっただろうな。


彼は笑顔で私にこのように語ってくれた。
顔の表情から、嘘ではなさそうだ。
本心から言っている。

仏教とその生き方は、還俗後もしっかりとタイ人の生きる指針となっているようだ。


出家と在家は大きく異なる。
出家はひたすら「悟り」目指し、ひたすら阿羅漢を目指す。
在家は、法により沿い、法にしたがってよりよく生きる道を目指す。

その先は、どちらも「悟り」であるが、その立ち位置が違う。

一見すると全く異なった道を歩んでいるかのようである。
全く異次元の世界を生きる生き方のようでもある。

しかし、どちらも「悟り」の階段を登っていることに違いはない。

大きなダンマという流れの中でみれば、どちらも仏教を生きている。

はるかかなたにある目指すべき場所は同じである。


タイ人のなかには、還俗後も、それぞれのなかで仏教的生き方がしっかりと根付いているようだ。

それは、一時的な出家生活であったのかもしれないが、その中で培われた生き方はとても大きいと感じた。



(『仏教的生き方』)



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