所有するということは「欲」であり、煩悩である。
また、所有するということは「守るべき」を持つということでもある。
しかし、その「所有する」ということの姿を見つめ、その感情の正体を知ろうとするのが出家であり、「所有する」という煩悩とのつきあい方を知ること、あるいは体得することによって苦しみを越えようとするのが仏教であると思う。
だからこそ必要最低限のものしか身の回りに置かない。
身体的にも、精神的にも。
それが出家の生活だ。
「現代の日本仏教が忘れ去ってしまったこと・・・
それは、守るべきを持たぬ姿勢だと思う。」
と、『守るべきを持たぬこと1』の冒頭で書いた。
『守るべきを持たぬこと1』では主に、「物」を所有することについて感じたことを書いたが、ここではもう一つの所有・・・家庭について。
出家をした者=比丘は、一生を独身で過ごさなければならない。
つまりは、出家者は家庭を持たないということをその生き方とする。
特に出家した僧侶は、結婚はおろか、性的関係や家庭を持つことを許されていない。
これは、日本以外の仏教国ではごく常識的なことであるが、唯一日本だけが例外なのである。
独身で過ごすことの意味の第一は、いうまでもなく瞑想修行に専念するためである。
異性に対する欲、妄想、執着の深さをよくよく知らなければならない。
異性、あるいは性に対する欲から派生する悩み・苦しみの姿をしっかりと見つめなければならない。
それは、欲の中に身を置いていたのでは実現できない。
自己をはっきりと見つめることができないためである。
実際に、異性(同性をも含む)との性的な欲は、正しい道を見えなくする。
人への執着は、物を所有することと類似する。
このことは、実生活の中で体験をされた方も多いかも知れない。
また、結婚とは、守るべきを作ることに他ならない。
「結婚しないこと」=「守るべきを持たぬ」ということである。
結婚をすれば配偶者を守らねばならない。
結婚することは家庭を持つことでもある。
子どもができれば育て、守らねばならない。
さらに家族や家庭を持てば、家族を養い、家庭を守っていかねばならない。
家族という存在ができれば、金を稼ぎ、生活の糧を確保し、食べていかねばならない。
生きる糧を持つということは、さまざまな苦労をともなうことになる。
無意識に今まで家庭の中に育ってきたが、逆に社会人となり、責任を背負う立場となる年齢となって感じること・・・そして出家。
これも、『守るべきを持たぬこと1』で紹介した事項とともに寺で生活をし、出家を通じて感じたことである。
タイ人比丘に言われたことがある。
戒律は欲に対する『鎧』である、妻子や世俗の生活は『手かせ・足かせ』であると。
守るべき存在を持つことで、やらなければならないことがらができる。
やらなければならないことができることで、悩み・苦しみが生まれる。
悩み・苦しみができることで、その正体を知らない我々は、さらに負のスパイラルへと迷い込むのである。
やらなければならないことなど人生の中には何一つ存在しないのである。
やらなければならないと思い込んでいるのは、実は自分自身であり、自分自身の価値観がそう思い込んでいるにすぎない。
そのように気づいた時、何かに追われていた自分、何かに縛られていた自分、何に関しても「ねばならない・・・」と思っていた自分が解放されたように感じた。
日本ではわからなかった出家をするということの意味が、なんとなくわかったような気がした。
出家をする喜びというものを感じた気がした。
長年の『癖』のようなものであるこの価値観を転換していくには時間がかかりそうではあるが、
きっとそれが、出家をするということなのであろう・・・。
(『守るべきを持たぬこと2』)
9 件のコメント:
タイなどでいつかの出家を考えています。
日本人がタイで出家させて頂く場合、親の同意書(もしくは似たようなもの)は必要ですか?親(もしくは親と親族の双方)が仏教に懐疑的・嫌悪的で同意書がもらえない場合、出家はできないのでしょうか?
コメントをいただきましてありがとうございます。
出家をする際には、親の同意が必要ということが原則です。出家の儀式の際の問答にもそのような文言が含まれています。
しかし、結論から言うと、全く問題ありません。
タイ人の場合は、親の同意はもちろん出家の儀式には必ず家族や親戚が出席します。
外国人の場合、親がいないので、例えばあなたを寺に紹介した人などを親として立てます。もちろんあなたを紹介した人でなくても構いません。私の場合も、出家をした寺の住職が知人を私の親として、施主として立ててくれました。
重要なのは、寺の許可を得ることで、寺が出家を認めてくれれば大丈夫です。
やはり、歴史の中では出家に伴って家族の誰の同意もなく「勝手」に出家をしてしまってトラブルになってしまうような事例があったものと想像します。
本来は同意を得るというのが筋なのですが、同意や同意書がなくとも出家はできます。もしどうしても気になるようでしたら、同意は得られなくとも、出家をするということを告げてこられれば良いのではないかと思います。
余談ですが、タイには外国人出家者がたくさんいます。仏教徒でなくても、仏教に興味があるだけの出家から仏教の研究のための出家まで様々あります。
その方が何かを感じ、少しでも法に触れることができたのならよいのでしょうね。
今後ともよろしくお願いいたします。
回答いただき大変ありがとうございました。
色々大変で体も弱っており出家できるか分かりませんが、問題ないとのお答えを頂戴し、ほっといたしました。
タイなどで出家させて頂く場合、ラべリングのマハーシ式と呼吸瞑想式などがあると思います。私はある協会でラべリングのマハーシ式を教えてもらったのですが合いませんでした。それで呼吸瞑想を基盤とする寺院を現在選びたいと思ってます。それでいざお寺で出家させて頂いてから、マハーシ式だったということにならないために、出家前に呼吸瞑想を基盤として瞑想するお寺であることを確認できる方法はあるのでしょうか?
コメントをいただきましてありがとうございます。
タイには様々な瞑想法があり、寺によっても様々であるということは、私のブログでもご紹介させていただいているいる通りです。
ご質問についてですが、事前に出家をされる寺について調べておかれるとよいでしょう。
出家前にその寺の僧なり、近所の方なりと会う機会があれば、とにかく話しましょう。自分の疑問や質問をある程度解決することができます。
また、もし紹介者があれば、その方にもたずねてみるべきです。タイ人であれば、どのような瞑想法を推奨している寺なのかくらいはおそらくは知っていることかと思います。
もし、事情によって出家予定の寺に選択の余地がない場合や、どうしても事前に寺についてを知ることができない場合、あるいはなかなか遠いタイの寺についての事前調査がかなわない場合などは、最初から「私はこのような目的で出家をしたいのです。」ということを周囲にしっかりと示しておかれるとご心配されているような事態には陥りにくいかと思います。目的意識をはっきりと周囲に示し、そのような方向性を持って進まれるべきです。できるだけ計画的にされるといいでしょう。
なんらかの情報がつかめるはずですし、そのように意識をして進むことで、意識的に選択をしていくことが可能になります。
参考までにですが、瞑想法には様々な流派がありますが、タイ国内の寺の割合から言えば、特定の瞑想法を持たない寺のほうが大半を占めています。特定の瞑想法の流派にあるのは一部の森の寺や修行寺のみです。
ですから、特定の流派にはない寺で出家の後、自分の求めに応えてくれる寺へ移るということもひとつの方法です。住職の許可をいただくことができれば可能です。特定の流派にある寺であっても、住職の理解を得られれば移籍が可能です。このあたりは非常に自由で、タイの寺のよいところです。現在でも自分の「師」を求めて旅することができるのです。
しかし、ごく一部ではありますが、他の寺へは出してくれない寺や移籍を許してくれない寺も存在するには存在しますので、ご質問者様のような目的を持つ方にはやはり出家の際には注意が必要です。ご自分のほうでもできる限りの下調べは必須かと思われます。
余談ですが、私が出家をした寺は、特定の流派には所属していない森の寺、というよりも山奥の寺でした。寺の講堂には、プッタタート師やアーチャン・チャー師、その他その地方や地域で尊敬を集めている高僧の写真が飾ってありました。瞑想法も「自分に合ったものを行えばよい。」「自然に生きることを旨としなさい。」といった主義の寺で、他の寺での修行を許していただくことができました。私の場合は、事前に知っていたわけではなく、本当に偶然でしたが、私にとっては幸運でした。
ごく一部の有名な寺についてのみですが、近々、修行寺と瞑想法のページをアップ予定ですので参考にされてください。
どうもありがとうございました。
有難い情報を教えて頂き感謝致します。
アーチャン・チャー師は尊敬させて頂いてます。この御方のおかげで、タイ仏教を知ることが出来ました。
長いコメントを頂いて、いつも短いコメント返信になってしまい申し訳ないです。
薬代について質問させて頂いてよろしいでしょうか。現在、体のあちこちが不調で、色々な病院に通院しております。
例えば、日本で月3千円の薬代がかかってるとして、年間3万6千円です。10年で36万。30年で108万円です。
この薬代は自分で日本で貯金して、外国で自分で購入すべきでしょうか?月3千円で30年出家滞在で百万超過となるとお寺側・在家信者でも払えないのではないでしょうか?それとも同等の薬でもタイと日本では価格が違いもっと少額でしょうか?タイなどで出家されてるタイ国外から来た御坊様は薬代をどうされてますか?また月3千円の薬代どころかガンなどの重病で手術・投薬なんて場合はもっともっとお金がかかる可能性が簡単に予測されます。
薬代・病院代について、てく様のご意見拝聴させて頂ければ幸いです。
コメントをいただきましてありがとうございます。
薬代や医療費については、ある程度は寺や支援者が面倒を見てくれることがあります。しかし、必ずではありません。また、高額になったり、容態が重くなればその範疇ではなくなるので、タイ人比丘の場合、多くは還俗します。
匿名様は、タイでの出家にどのようなことを求めていらっしゃるのでしょうか?結論から申しますと、ご質問内容から言葉も文化も全く違う、住み慣れない環境の海外生活、特に出家という一般の生活空間とは異なる空間で、しかも長期間の生活を続けることを私は、おすすめすることはできません。日本の生活の中で穏やかに暮らす選択をされてはどうかと思います。突き詰めていけば、出家をしなければできないことはないのです。しかし、今は出家したい気持ちが強いことかと思います。私がそうでした。以下は、タイで出家し、挫折し、還俗し、そして以前のような俗人となって言えることなのかもしれません。文字では到底伝えきれませんが、どうか少しでも伝わりますように願ってお答えいたします。また、文字にするとやや偉そうな表現になってしまいますが、その点、どうかお許しください。
瞑想修行は、在家のままでも可能ですし、しかも相当レベルまで可能とされています。持戒の生活も在家者が守るべき5戒を守って生きるだけでも人格を磨いていくことができます。しかも、守ろうとすることによって様々な学びがあります。タイの森の寺ような生活も日本において可能です。実際にそのように日本で生活をしている「平成の聖者」「平成の仙人」ともいうべき方がいらっしゃいます。
比丘になりたい。黄衣をまといたい。人から尊敬され、礼拝されたい。煩わしいすべてのことから解放されたい。瞑想修行に専念したい。・・・出家したいという気持ちの中には、これらのすべてが心の中にあることかと思いますが、もう一度、自己と仏法をよくよく吟味してみてください。僧になって黄衣をまとったからといって仏法が身に付きますでしょうか?人から礼拝され、尊敬を集めたい・・・さらに慢心を増幅させるだけです。煩わしいすべてのことから解放されたい・・・出家の中にも煩わしさはあります。所詮は、出家とはいえ人の心の世界のことですから、どのような世界に行ったとしても悩みは発生します。世間の中の出世間なのです。修行に専念したい・・・確かに出家の生活は修行三昧の生活を実現してはくれます。それは私も強く憧れた生活です。しかし、今の生活の中でも実践できることがあります。例えば、毎日瞑想してください。時間がなければ5分でも10分でも15分でも瞑想をしてください。どんなに忙しくとも、来る日も来る日もです。一日も休まずにです。
一つだけ出家でしかできないこと、それは人々からの布施(日本のような形ではなく)でもって命をつなぐことです。ブッダは、すべてを捨てて出家をされました。そして、自分の命を他人に托したのです。鉢(=食=自分の命)を托すから托鉢なのです。托鉢で命をつなぐからこそ出家者なのです。出家することに対して、この覚悟はありますか?
現在の私の意見としては、日本においても、在家のままであっても、瞑想は可能であり、仏教の生活は可能だと思っています。
どうもありがとうございます。
色々吟味しなくてはいけないと思います。
コメントを投稿