タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2011/05/01

瞑想中に目は閉じるのか?開くのか?


目は閉じるのか?開くのか?

瞑想を体験した人の中で、このような疑問を抱いた方はいないだろうか。


日本の禅では、目は開くように指導される。

楽にして、半分閉じているような状態、いわゆる「半眼」と呼ばれる状態だ。



さて、タイではどうか?

・・・それは、瞑想法によって異なる。



以下にざっと見てみることにする。



◎アーナパーナサティ・・・開く
(呼吸系の瞑想法)

◎ユプノー・ポーンノー・・・閉じる
(マハーシ系の瞑想法)

◎ワット・パー・スカトーの瞑想法・・・開く

◎サンマー・アラハン・・・閉じる
(ワット・パクナム、ワット・プラ・タンマカーイの瞑想法)



と、さまざまである。



アーナパーナサティでは、自分の呼吸を観察することから始める。

「目を閉じると眠気に襲われるから注意せよ。」と教えられ、目を開いて瞑想するように指導される。

瞑想方法としての類似点から言うと、このアーナパーナサティが日本の禅に一番近い瞑想法であるといえる。


『アーナパーナサティ』(プットー/数珠を使った瞑想法など、呼吸系の瞑想法)



マハーシ系の瞑想法では、腹部の動きを細かく観察することから始める。

そのため、目を閉じて腹部の動きや自分の思考の観察に集中するように指導される。

一方で、目を閉じることから強い眠気や、いつの間にか眠りの中に入ってしまうことには十分に注意をしなければならない。


『縮み・膨らみの瞑想法』(ユプノー・ポーンノー/マハーシ系の瞑想法)



ワット・パー・スカトーの瞑想法では、自分の動作によって、触れ合ったその感覚自体にサティを加える。

よって、その瞬間瞬間に集中することが求められるため、目を開けて瞑想する。

アーナパーナサティと同様に「目を閉じると眠気に襲われるから注意せよ。」と指導される。


『ワット・パー・スカトーの瞑想法』



ワット・パクナムやワット・プラ・タンマカーイの瞑想法では、まず「光の玉」を見ることを教えるため、目を閉じて瞑想し、ひたすら「光の玉」を見ることに集中する。

よって、目は閉じて瞑想しなければならない。

(サンマー・アラハンの瞑想法)



同じ瞑想でも、目を閉じるのか、開くのか、上述の通り一様ではない。

この違いは、少々私の興味をひいたのでここに紹介させていただいた。



それぞれの瞑想法に関心をお持ちの方は、それぞれに項目を立てて紹介させていただいているので、そちらを参照されたい。


すでにタイの瞑想法のページにおいても述べたが、どの瞑想法を選択したとしても、信頼できる指導者や師匠につくことが大切であり、そうした人の指導に従うことが重要である。


瞑想は、勝手な判断が最も危険な行為だからだ。



(『瞑想中に目は閉じるのか?開くのか?』)



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3 件のコメント:

kanduboda さんのコメント...

ハマシ方式のヴィパッサナー修行者です。20年前にスリランカの瞑想センターに延べ1年ほどいました。
目を閉じるのか、否か、は自分でも永年の間疑問でした。瞑想センターでも特に指示はなかったと思います。

ワタシの場合は集中し易いので目を完全に閉じていますが、やはり睡魔が一番の敵ですね。稀にですが寝てしまった自分を意識できる時があるのですが、ここまで行くにはやはり僧院での静かで長時間の瞑想が必須ですね。

kanduboda さんのコメント...

すみません、「ハマシ」と書いてしまいましたが、勿論マハシの間違いです。
私が居た瞑想センター "Kanduboda" はマハシ・サヤドー長老がスリランカに50年前に開いたところです。

Ito Masakazu さんのコメント...

コメントありがとうございます。コメントに対する返信が遅れましたことをお詫び申し上げます。
目を閉じるのか、開くのか?すでにご紹介させていただいた通り、各瞑想法によって異なるようですが、アーナパーナサティなどの呼吸を意識する瞑想法の系統の多くは目を開けるように指導されます。目を閉じることによる睡魔には、私もずいぶんと悩まされ続けました。
これは、個人的な見解なのですが、目を開けて瞑想するほうがより原始のかたちに近いのではないかと思っています。それは、タイで有名な瞑想法のほとんどは創始者がわかっており、近現代に改良・創始されたものだからです。また、タイに伝わっている在来の瞑想法は目を開くよう指導されます。・・・もっともこれらは明確な根拠とはならないかもしれませんが。
しかしながら、目を閉じたほうが集中しやすいのも確かかと思います。また、目を閉じるマハーシ系の瞑想法が「一番合理的で、より悟りに近づくことができる確信が持てる瞑想法だ」と言った人に出会ったこともあります。私も長らくマハーシ系の瞑想法を修してきたので、その方の意見にも納得できます。
日本の場合ですと(例えば禅など)、姿勢や細部の所作に至るまでの全てをこと細かに規定していますが、上座仏教の瞑想法の場合は、全般的に、いたって自由なところが特長のひとつだと言えます。
目を閉じるのか?開くのか?が明確に定められていないということは、逆に言えばそんなに重要なことではないということなのでしょうか。
私が思うに、『自己を客観的に観る』『自己の感情にまき込まれない』ということを達成することこそが瞑想の目的だからなのでしょうか。