タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/07/19

日常の生活そのものを瞑想とする


タイにおいても多数派の瞑想法であるのが「膨らみ縮みの瞑想法」こと、ミャンマーより伝えられたマハーシ式の瞑想法だ。



マハーシ式の瞑想法は、実践方法が体系的で、方法論がはっきりとしている。



瞑想の技術的な指導も比較的丁寧であるというのがその特長であろう。




一方で、他の瞑想法の系統や森林派の系統では、瞑想の技術的な指導はさほど細やかではない。



そのため、拍子抜けをしてしまうという日本人が少なからずいるという話も聞く。




しかし、私も経験があるのでよく理解ができるのであるが、これは初めにタイの瞑想についてもう少し理解を深めておくべきであるかと思う。



なぜならば、タイのごく一部の瞑想法を除いて、どの瞑想法を採用し、実践し、修習しようとも、最終的には「日常の生活そのものを瞑想とする」方向へと向かっていくことになるからだ。



いや、「日常の生活そのものが瞑想となっていく」と言った方が正しいのかもしれない。



ところが、かく言う私も「日常の生活そのものを瞑想とする」ということの意味を理解できるようになったのは、皮肉なことに還俗後のことであり、日本の生活の中でのことであった。



私が気づくことができたのが還俗後であったように、腑に落ちるまでには少し時間を要するのではないだろうかと思う。







私が出家をした森のお寺に出入りのある職人さんたちと。






特にタイの森林派の僧院では、「日常の生活そのものを瞑想とする」ように指導されることがあり、もちろんケースバイケースではあるけれども、瞑想の技術的な面の指導はあまりなされないことも多い。



ゆえに、僧院生活では、瞑想ばかりをやっているわけではない。


境内の掃除や僧院内の作務なども、他の瞑想センターよりも少し多い印象だ。



また、決まった日や決まった時間にインタヴューの時間が設けられているというわけではなく、自ら瞑想指導者のもとへと飛び込んでいかなければ、直接の指導を受けることができない。



そこは、こちらから“貪欲”に求めて行かなければならないとうわけだ。




それもそのはずで、森のお寺という存在は、基本的には個人で瞑想修行を実践していくための場であり、あくまでも自分の道がある程度確立した者がさらなる高みを求めて身を置く場なのである。



決して瞑想の指導方法に問題があるというわけでもないし、タイの僧院だから指導が手厚くないというものでもない。



ともすると、“瞑想指導”と言えば、瞑想の技術的な指導や受け身的な指導ばかりを指すという固定観念があるのではないだろうかと思う。




現在、タイで実践されているどの瞑想法を採用したとしても、ある程度実践が深まってこれば、気づきの力が強まって、覚醒している時間が長くなる。



すると、ごく自然に生活そのものを瞑想とする方向へと向かっていく。




私は、残念ながら出家中にはそのことに気がつくことができなかった。



逆に言えば、その段階にまで瞑想の力を高めて、サティの力を高めることができなかったのである。



森のお寺のはっきりとしない「日常の生活そのものを瞑想とする」という指導の意味するところがどこかわかりずらく感じたというのが本音のところだ。



しかも、以前にも触れたことであるが、「瞑想」そのものと、「日常生活」とが別々のものに思えてしまうといった状態に陥ってしまったのだ。



どうしても瞑想と日常の生活とが結びつかなかった。



しかし、それは、違うんだということに気がついたということである。




仏法の実践は、瞑想の実践である。



瞑想実践は、日常生活そのものである。



常に注意深くあり、常に意識的になる。



いつも冷静で、いつも落ち着いている。



いつもサティ、いつも気づき。




これは出家者であっても、在家者であっても同じである。



どの瞑想法も「日常の生活そのものを瞑想とする」ということに行き着く。



「日常の生活そのものを瞑想とする」・・・この姿勢は非常に大切で、常にこの姿勢であることを心がけていくべきだということに気がついたということである。




善き“きっかけ”はどこにあるのかわからないものだ。


“気づき”は、今ここにあるのかもしれない。



(『日常の生活そのものを瞑想とする』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
 ミャンマーの瞑想センター(瞑想センターにもよりますが)でも「日常生活の瞑想」をとても重視されます。坐禅や歩行瞑想も重要だが、日常生活での瞑想もそれと同じくらい重要なのだと何度も言われます。セヤドーによっては、朝目覚めた時と就寝前にどのように瞑想しているか説明を求められたりします。目覚めと就寝時は、どうしても気づきが手薄になってしまうことへの注意を促す意味もあるようです。
実際、日常生活でも気づきを保ち続ける努力をすることで、坐禅や歩行瞑想でもより集中できるようになっていくようにも感じますし。それに、トイレや食事、着替えなどでも気づき続けていると、何でこんなことに今まで気づかなかったんだろうというような、小さな発見が毎日のようにあったりするのですよね。
やはり日常生活が鍵になるのではないでしょうか。

 一方、瞑想センターという環境にいると、日常生活の瞑想もそれなりにできるのですが、俗世間で仕事もしながら、瞑想センターと同様のレベルで日常生活の瞑想を継続するのは難しいです。なるべく妄想に飲まれずに、できるだけ気づきを保ち続けているというのが現状です。
やはり、たまには瞑想センターなどに滞在して、24時間体制で瞑想することも意味あることだとは思います。やはり練習量が多い方が少ないよりは良いでしょうから。

 悟りとは程遠い立ち位置にいる自分ですが、それこそ就寝時間以外はすべて気づき続けることができるくらいにならないと、智慧が生じて悟りに辿り着くのは不可能ではないかと思ってしまいます。
「ありのままに観察する」という、文字にすると実に単純で簡単そうに見えるこのことが、実践してみると、少なくとも私にとってはかなり難しいと実感します。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

まさにそこなのですよね。「ありのままを観察する」ことは非常に難しい。少なくとも日常生活は、瞑想に適した静かな環境ではありません。他者から不必要に心を乱されることもよくあります。そこはタイであっても同じだとは思うのですが、特に大きく違うのは、時々、お寺や瞑想センターなどへ通って24時間体制で瞑想することができるような環境がないという点です。そんな日本においてはなおのことだと思います。本当にたまには集中的に瞑想に励みたいと思うことはしばしばあります。

日本へ帰国後、このような「現実」に直面し、愕然とさせられてしまったのがこの私でした。しかし、そんな瞑想とは程遠い環境の日本の生活ですが、森の修行寺で教えを受けたことが活きると確信することができたことも、このどうしようもない環境の中でのことでした。

全く瞑想しているとは言い難い状態なのかもしれません。ハードルが高過ぎて嫌になってしまうこともあります。しかし、私はこうした問いかけの繰り返しなのではないかと思っています。これでいいのか、これでいいのかと常に問い続けていくことだと思っています。それがある意味での自分の姿の「気づき」にもつながっていくのではないかと思うのです。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。