在家の方であるが、非常に穏やかな生き方をなさって来られたばかりでなく、国を越えて多くの人々にその生き方を伝えてこられた方だ。
私がカンポンさんのことを知ったのは、帰国後のことで、
『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』(※1)
という彼の著書を通じてその存在を知ったのであった。
著名な方であるので、すでにご存知の方は多いことかと思う。
この動画を見た時、私がタイで触れたことや感じたこと、そして学んだことがまさに凝縮されている・・・そのように感じた。
死亡の診断を受ける瞬間、葬儀の風景、荼毘(火葬)にふされていく時の様子、散骨される時の様子・・・これらの全てをありのままに伝えているのだ。
『死についてのことを さわやかに
そして ありのままに語っていました。
死は 誰にでも 訪れるもの。』(動画/5:09)
「死」ということもまた、何の変哲もない日常の単なる一場面にしか過ぎない。
雨が降ったり、風が吹いたり、晴れたり、曇ったり・・・そのような変化はごく自然なこと。
それと全く同じ、ごくごく普通のことで、ごくごく自然なことなのだ。
当たり前のことを当たり前のこととして受け取る。
当たり前のことを当たり前のこととして受け取ることができないというところに、大きな苦悩が生じるのではないか。
ところが、知ることはできたとしても、その“当たり前”の現実を知り、“本当”の意味において受け入れるということは、なかなか難しいことなのかもしれない。
カンポン・トーンブンヌムさん 動画: 『死・それは命の最後の授業』より |
私のタイでの大きな学びのひとつが、タイの人々の仏教に対する姿勢と死に対する姿勢だ。
それゆえ、死に関しては、今までにも何度かブログの記事として書いている。
私は、タイで死体を観察するという修行(不浄観)や、この動画にもあるような散骨の場に立ち会わせていただく機会があった。
関連記事:
タイの人々の「死」に対する姿勢や「死」というもののとらえ方は、とてもさわやかで美しい。
こうした姿勢は、日本にはない姿勢であるということを感じたのだ。
もちろん、これは、私個人の感じ方である。
家族や親しい人、大切な人を亡くした者にとっては、深い悲しみの最中にあるのは当然で、そうした人に対してこう表現するのは大変失礼なことであるし、軽々しく表現するのも適切ではない。
そこは、十分に承知のうえで書かせていただきたい。
何卒、誤解のないようにお汲み取りいただきたいと思う。
さらには、“仏法を伝える”ということに対する、これほどまでの真摯な姿勢もまた、日本にはない姿勢であると強く感じた。
まさに、この動画の中で語られているように「法を伝える道具として生きる」姿そのものだ。
日本においては、いくら宗教に携わっている人であったとしても、自身が死を迎える瞬間や自身が荼毘にふされていく瞬間を他人に見せたり、公にするというようなことは、まずあり得ない。
「死」のありのままの姿を見せることは、日本では“見せ物”として理解をされたり、嫌悪感を抱かれたり、あるいは人権問題として批判の的にもされかねない行為だろう。
だが、死とは、ごく自然なものであり、誰にでも訪れるものなのである。
ごく普通に出会う、何の変哲もない日常の1ページなのである。
動画は、そのことをありのままに伝えてくれており、日々をどのように生きていくべきなのかを教えてくれている。
『私たちが今、どう生きるかが どう死ぬかを決めていくのです。』(動画/8:12)
「法を伝える道具として生きる」ということは、自らが他者の仏法の学びと、徳を積む機会そのものとなるばかりではなく、そうすることで自分自身の徳ともなる、非常に尊い行為であるということを忘れてはならないと思う。
きっと、この“命の最後の授業”は、私達にとっての学びとなり、徳となるとともに、カンポンさんにとっても大いなる徳となったに違いない。
互いにとって素晴らしき、善なる機会であったのだと思う。
私がタイで過ごした期間に何度かこうした学びの機会に恵まれた。
今も、タイにはこうした風景が、そして生き方が確かに息づいているのだ。
なんとなく良いことだと感じる言葉。
万人受けする言葉、聞き心地の良い言葉。
わかったような気にさせてくれるような言葉、優しい言葉。
日本で見かけるそのような言葉の多くは、どこかうわべだけの言葉であったりすることも多いのではないだろうか。
動画の中で語られているカンポンさんの言葉は違う。
誰もが理解ができる言葉でありながらもダンマが語られている。
そして、誰もが腑に落ちるようなかたちでダンマが語られている。
動画は、タイ語であるが、日本語の字幕が付されており、とてもわかりやすい言葉で語られている。
24分程の動画の中には、カンポンさんの生前のメッセージと死に至るまでの過程と学びとが込められている。
短編のものであるので、是非とも、全てをご覧いただきたいと思う。
< 動画 >
『死・それは命の最後の授業』
(※こちらからご覧ください。)
『私たちが今、どう生きるかが
どう死ぬかを決めていくのです。』(動画/8:12)
『悟りとは、ただの言葉
真実は、苦しみがない。』(動画/10:40)
これらは、カンポンさんが最期に遺してくれた言葉である。
「死」が語られ、ここまで「死」のありのままの姿を見せられているのにも関わらず、心はとても軽く、とても清々しく、そしてとても安らかになっていく。
・・・これも、ここに「法を伝える道具として生きる」真摯な姿があり、真理が語られているからに違いない。
私は、そのように感じた。
<動画のリンクについて>
私が、この動画を見た時、私がタイで見てきたことや触れたこと、感じたこと、そして学んだことがまさにここに凝縮されていると感じました。
親族や近い間柄であったとしても、「臨終を看取る」という機会が極端に少なくなってしまった日本。
「死」というものが、日常生活の中から消し去られてしまったかのような感すらあります。
このような学びは、日本で生活をしている私達にとって、非常に貴重なものであると感じると同時に、もしかするとこうした学びは日本では不可能なことなのかもしれないと感じました。
また、実際に語られている言葉を聴き、実際の様子や実際の景色を動画というかたちで目にすることは、非常に意義深く、大きな学びとなるものであると強く確信したのでした。
そのため、動画を公開していらっしゃった浦崎雅代様のご承諾のもと、動画をリンクさせていただき、ブログの記事とさせていただくことができました。
動画のリンクに関しまして、以前よりお世話になっております浦崎雅代様に深く感謝申し上げます。
浦崎雅代様
『タイの空(Faa)に見守られて』
< 参考文献 >
註)※1
カンポン・トーンブンヌム 著
『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』
2007年 佼成出版社
(Amazonへリンクしています。)
(『動画のご紹介 『死・それは命の最後の授業』)
☆無料メルマガのご案内
毎月24日に配信しています。
ブログとあわせてご覧いただければ幸いです。
過去の記事を再掲載しながら、ブログでは紹介していない話題をはじめ、さらに踏み込んだ話題やプライベートな話題、その他さまざまな情報などをあわせてご紹介しています。
これから様々な方面で活用していきたいと考えています。
友達申請の際は、メッセージを添えていただきますようお願いいたします。
Facebook : Ito Masakazu
2 件のコメント:
ブログ拝見しました。
カンポンさんの語られる言葉が、心に突き刺さりました。
自分も死に向かって突き進んでいることを思い知らされましたし、
なんか、無駄に時を過ごしているのではないかという焦りのようなものを感じてましたし。
自分の生き方がまだまだ甘いと痛感です。
やはり、お釈迦様の最後の言葉どおり、気づきを切らさず、「今、ここ」を大切に生きなきゃと自戒しました。
私の曾祖母の口癖が「生まれいずるその日より、日々に縮みゆく我が命」だったのだそうですが、まさにそのとおりですね。
老齢になったとき(無論、そこまで生きられるどうかもわかりませんが)、人生なんてあっという間だったなと思うような気もします。死に際に後悔しないよう精進しないといけませんね。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
私も同じく、心に突き刺さりました。表面的には、誰もがわかっていることなのですよね。誰もがわかってはいることなのですが、実は、誰もが全くわかっていないことでもあるのですよね。
このことを本当の意味で腑に落とすには、やはり、日々、気づきを保ち、観察していくこと、すなわち瞑想していくしかないのだと思います。実際に自身が死というものに直面した時・・・全く動じずに穏やかに迎えることができるのか、それとも動揺してもがき苦しみ、慌てふためいてしまうのか・・・どの程度腑に落ちているのかがまさに試されます。
「生まれいずるその日より、日々に縮みゆくわが命」・・・ご立派なお方だったのですね。私も、祖母からいくつかの話を聞かされたことがあるのですが、昔の人は、ごく普通に仏教的な生き方をしていたのだなあと思ったことがあります。もしかすると、現代人の生き方をかたち作っている社会の風潮といいますか、価値観といいますかが、変わってしまったのかもしれませんね。
そういった意味でも、この動画はとても貴重で、非常に大きな学びを与えてくれるものであると感じました。
私もしっかりと気を引き締めて精進してまいりたいと思います。
貴重なお話をありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
コメントを投稿