「先生は、悟っているのですか?」
ある人がこのような質問をした。
森の修行寺の住職であり、高名な瞑想指導者でもある方に対してである。
この質問を聞いた私は、少しばかり驚いた。
非常に真摯な質問ではあるのかもしれないが、一方で非常に失礼な質問ではあるまいか。
また、同時に大変私の興味をひいた質問でもあった。
どうしてかと言えば、一体どのように答えるのかが非常に気になる質問だったからだ。
師は、タイの世間では、非常に高い境地に達しているそうだとか、さらには阿羅漢なのではないかなどと囁かれている程の人物である。
はたして師は、この質問に対してどのように答えるのだろうか・・・。
「悟っている」と答えるのだろうか。
もし、そのように答えたのならば、それは本当なのだろうか、それとも嘘なのだろうか。
それとも、「悟っていない」と答えるのだろうか。
もし、そのように答えたのならば、そのあとどのように説明を続けるのだろうか。
瞑想指導者としての立場はどうなのであろうか。
質問を聞いていた私の脳裏には、瞬時にそんな疑問が浮かんだのであった。
余談ではあるが、もし、悟りを得ていない者が「悟りを得た」と妄語することは、戒律の上ではサンガから追放され、再び出家することさえ許されない大罪であるとされている。
これは、瞑想や実践に重きを置くサンガにとっては、非常に大切な修行者の姿勢であるがゆえに、大罪となっているのである。
もしも「悟っている」という答えが嘘であったならば、それは大罪だ。
比丘であれば、そういったことは十分に承知しているはずである。
【参考】
1、淫を行う。・・・全ての性行為。
2、他人の所有物を盗む。・・・盗み。
3、自ら、もしくは他人をして、刀にて人を斬り、死にいたらしめる。・・・殺人。
4、禅那、解脱、三昧、四向四果の法を証悟せずして、すでに証悟したと妄語する。・・・詳細は割愛するが、つまりはそれぞれその境地に至っていないにもかかわらず、私はその境地に至ったのだと嘘をつくこと。
以上の4箇条のうち、いずれを犯しても波羅夷(上記4つの罪の総称)であり、その比丘はサンガより追放され、比丘として住することはできない。
この4箇条は、比丘が保つべき227の戒律のうち、一番最初の冒頭4箇条で、最も罪が重い条項である。
※参考文献
佐々木教悟 『上座部仏教』 平楽寺書店 1986年 より引用・加筆
この質問に対して師が答えた。
「私も悟っているわけではない。
ただ、私は善ききっかけを作っているだけである。
瞑想することは、善ききっかけを作っているに過ぎない。
そして、善ききっかけを積み重ねているに過ぎない。
ただひたすら善ききっかけを積み重ねているだけである。
その結果、善き方向へ向かうのであり、やがては悟りへと至り得るのです。」
というものであった。
私は、この答えに「なるほど!」と思った。
同時に高名な瞑想指導者の「悟っているわけではない」という答えに、多少の落胆と、どこか私との親近感というか、安堵感というか、表現しづらいそんな感覚を覚えた。
さらにまた、「善ききっかけを作り、積み重ねる」という言葉に大変な感銘を受け、その後ずっと私の記憶に残ることとなった。
そして、何度も何度も繰り返し吟味をした。
瞑想とは、ひとつのトレーニングであるということは、記事の中ですでに書いていることであるが、まさに「善ききっかけ」に他ならない。
瞬間瞬間の選択をより善きものにするためのトレーニングである。
自己の行為、自己の言葉、自己の思考。
それらひとつひとつの動きに気づき、より客観的に、より冷静に、より穏やかにものごとを観ていくことを繰り返していくのである。
それが仏教の瞑想だ。
どうしてかと言えば、一体どのように答えるのかが非常に気になる質問だったからだ。
師は、タイの世間では、非常に高い境地に達しているそうだとか、さらには阿羅漢なのではないかなどと囁かれている程の人物である。
はたして師は、この質問に対してどのように答えるのだろうか・・・。
「悟っている」と答えるのだろうか。
もし、そのように答えたのならば、それは本当なのだろうか、それとも嘘なのだろうか。
それとも、「悟っていない」と答えるのだろうか。
もし、そのように答えたのならば、そのあとどのように説明を続けるのだろうか。
瞑想指導者としての立場はどうなのであろうか。
質問を聞いていた私の脳裏には、瞬時にそんな疑問が浮かんだのであった。
余談ではあるが、もし、悟りを得ていない者が「悟りを得た」と妄語することは、戒律の上ではサンガから追放され、再び出家することさえ許されない大罪であるとされている。
これは、瞑想や実践に重きを置くサンガにとっては、非常に大切な修行者の姿勢であるがゆえに、大罪となっているのである。
もしも「悟っている」という答えが嘘であったならば、それは大罪だ。
比丘であれば、そういったことは十分に承知しているはずである。
【参考】
1、淫を行う。・・・全ての性行為。
2、他人の所有物を盗む。・・・盗み。
3、自ら、もしくは他人をして、刀にて人を斬り、死にいたらしめる。・・・殺人。
4、禅那、解脱、三昧、四向四果の法を証悟せずして、すでに証悟したと妄語する。・・・詳細は割愛するが、つまりはそれぞれその境地に至っていないにもかかわらず、私はその境地に至ったのだと嘘をつくこと。
以上の4箇条のうち、いずれを犯しても波羅夷(上記4つの罪の総称)であり、その比丘はサンガより追放され、比丘として住することはできない。
この4箇条は、比丘が保つべき227の戒律のうち、一番最初の冒頭4箇条で、最も罪が重い条項である。
※参考文献
佐々木教悟 『上座部仏教』 平楽寺書店 1986年 より引用・加筆
この質問に対して師が答えた。
「私も悟っているわけではない。
ただ、私は善ききっかけを作っているだけである。
瞑想することは、善ききっかけを作っているに過ぎない。
そして、善ききっかけを積み重ねているに過ぎない。
ただひたすら善ききっかけを積み重ねているだけである。
その結果、善き方向へ向かうのであり、やがては悟りへと至り得るのです。」
というものであった。
私は、この答えに「なるほど!」と思った。
同時に高名な瞑想指導者の「悟っているわけではない」という答えに、多少の落胆と、どこか私との親近感というか、安堵感というか、表現しづらいそんな感覚を覚えた。
さらにまた、「善ききっかけを作り、積み重ねる」という言葉に大変な感銘を受け、その後ずっと私の記憶に残ることとなった。
そして、何度も何度も繰り返し吟味をした。
瞑想とは、ひとつのトレーニングであるということは、記事の中ですでに書いていることであるが、まさに「善ききっかけ」に他ならない。
瞬間瞬間の選択をより善きものにするためのトレーニングである。
自己の行為、自己の言葉、自己の思考。
それらひとつひとつの動きに気づき、より客観的に、より冷静に、より穏やかにものごとを観ていくことを繰り返していくのである。
それが仏教の瞑想だ。
「徳」を積むことも然り。
「善ききっかけ」を重ねることである。
寺へ足を運ぶ。
比丘へ布施をする。
仏法を学ぶ。
仏法を聴く。
仏法を実践する。
人の役に立つ。
人の喜びとなる。
人の安らぎとなる。
みな善ききっかけとなることがらである。
「善ききっかけ」を重ねることである。
寺へ足を運ぶ。
比丘へ布施をする。
仏法を学ぶ。
仏法を聴く。
仏法を実践する。
人の役に立つ。
人の喜びとなる。
人の安らぎとなる。
みな善ききっかけとなることがらである。
あるタイ人が、誰かを手助けした時にも「これも“徳”だよ」と、とても爽快な笑顔で言った姿を思い出した。
仏教とは関係がないことなのに「徳」だと言ったのには、少しばかりの違和感を感じた。
しかし、その「徳」とはこういう意味だったのかもしれないとふと気づかされた。
日本で「徳」とは何かということを説明できる人はいるだろうか。
ともすると今や、死語にも等しいのではないだろうか。
仏教的な生き方や価値観が忘却されつつある昨今では、どのようにすることが徳を積むことなのかも、現代人にとってはすでにわからなくなっているように感じる。
タイでは、仏教という確かな物差しがあり、五戒という努力徳目がある。
それらに照らして、自己の行為を見つめ、自己に気づき、正していくのである。
そして、さらに大きく大きく広げてゆくのである。
日常の中では、いろいろな疑問が生じてくる。
このまま瞑想を続けていて変化はあるのだろうか。
瞑想に限らず生活のあらゆる場面においても同様の疑問が起こってくる。
本当に善き方向へ向かっているのだろうか。
変化もなければ、いいことも起こらない。
進歩も感じない。
そうした疑問を一度は抱いたことがあるのではないだろうか。
誰もが通る道であると私は思う。
迷った時には、法に照らして、よく自己を吟味し、自己の歩の選択や軌道を修正していけばよい。
力を入れ過ぎた時には、少し力を抜いて、もう一度自分自身に気づきを入れてみる。
真理に逆らってはいないだろうか。
真理に沿って歩むようにしているだろうか。
再度、自分に問いかけたい。
法を聴くこと、法を学ぶこと、法を実践すること、全てが善ききっかけである。
それだけではない。
和やかで穏やかな姿勢。
和やかで穏やかな言葉。
人に恐れや怒りの感情を抱かせない態度。
人に安らぎや落ち着きを与え、穏やかにさせる態度。
全てが善き未来への種であり、きっかけである。
全てが“善ききっかけ”なのである。
今ある環境や条件のもとで、今の自分ができることから実践すればよい。
どんなに小さなことであっても。
善ききっかけや善き機会は、より多いほうが好ましい。
そして、より多く積み重ねるほうが好ましい。
善ききっかけを積み重ねてゆけば、必ず善き結果となる。
その善き結果がまた善ききっかけとなっていく。
未来は、必ず善きものとなる。
(『善ききっかけを作る』)
仏教とは関係がないことなのに「徳」だと言ったのには、少しばかりの違和感を感じた。
しかし、その「徳」とはこういう意味だったのかもしれないとふと気づかされた。
日本で「徳」とは何かということを説明できる人はいるだろうか。
ともすると今や、死語にも等しいのではないだろうか。
仏教的な生き方や価値観が忘却されつつある昨今では、どのようにすることが徳を積むことなのかも、現代人にとってはすでにわからなくなっているように感じる。
タイでは、仏教という確かな物差しがあり、五戒という努力徳目がある。
それらに照らして、自己の行為を見つめ、自己に気づき、正していくのである。
そして、さらに大きく大きく広げてゆくのである。
日常の中では、いろいろな疑問が生じてくる。
このまま瞑想を続けていて変化はあるのだろうか。
瞑想に限らず生活のあらゆる場面においても同様の疑問が起こってくる。
本当に善き方向へ向かっているのだろうか。
変化もなければ、いいことも起こらない。
進歩も感じない。
そうした疑問を一度は抱いたことがあるのではないだろうか。
誰もが通る道であると私は思う。
迷った時には、法に照らして、よく自己を吟味し、自己の歩の選択や軌道を修正していけばよい。
力を入れ過ぎた時には、少し力を抜いて、もう一度自分自身に気づきを入れてみる。
真理に逆らってはいないだろうか。
真理に沿って歩むようにしているだろうか。
再度、自分に問いかけたい。
法を聴くこと、法を学ぶこと、法を実践すること、全てが善ききっかけである。
それだけではない。
和やかで穏やかな姿勢。
和やかで穏やかな言葉。
人に恐れや怒りの感情を抱かせない態度。
人に安らぎや落ち着きを与え、穏やかにさせる態度。
全てが善き未来への種であり、きっかけである。
全てが“善ききっかけ”なのである。
今ある環境や条件のもとで、今の自分ができることから実践すればよい。
どんなに小さなことであっても。
善ききっかけや善き機会は、より多いほうが好ましい。
そして、より多く積み重ねるほうが好ましい。
善ききっかけを積み重ねてゆけば、必ず善き結果となる。
その善き結果がまた善ききっかけとなっていく。
未来は、必ず善きものとなる。
(『善ききっかけを作る』)
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