この寺には何もない。
質素なお堂と比丘が生活するに足る、実に簡素な小屋が点在するだけの小さな寺。
数人の比丘が止住するだけの小さな寺。
ただ日々生活してゆくのに必要なものだけがある。
私達の日常は、いかに不必要なものが多いことか。
車もない。
テレビもない。
テレビもない。
エアコンもない。
パソコンもない。
パソコンもない。
携帯電話もない。
寺に止住する者には、それぞれ小さな小屋が与えられる。
生活するのに必要最低限の簡素な小屋である。
生活するのに必要最低限の簡素な小屋である。
もちろん、私に与えられた小屋も他の小屋と同様、簡素な小屋だ。
小屋の中にもやはり何もない。
水道の蛇口がただひとつ。
そして、裸電球がひとつあるだけ。
日本の生活からは全く考えられない。
ところが、少しこの生活に慣れてくると、このシンプルな生活こそ足るを知るための生活だと気づかされる。
そんなタイの山奥の小さな森の寺にある小さなお堂で、私は出家の儀式を行っていただいた。
ヤシの葉っぱで葺かれた屋根。
壁もなくただ柱だけの簡素な建物。
なんの装飾もない。
風が吹けば落ち葉が入ってくる。
雨が降れば雨もりがある。
しかし、この簡素な建物こそがこの森の寺で一番重要な出家を行うための建物なのだ。
ブッダの時代の比丘達はどのように出家をしたのであろうか。
どのように日々の生活を送ったのであろうか。
そして、どのように修行に励んだのであろうか。
おそらくは、この寺以上に簡素な場所で生活を送り、瞑想に励んだのではないだろうか。
寺すらもなかったのかもしれない。
木陰で教えを説くブッダのもとに集い、出家を乞い、比丘となったに違いない。
木陰で教えを説くブッダのもとに集い、出家を乞い、比丘となったに違いない。
何もない木陰でひたすら瞑想に励み、ブッダの教えをかみしめたに違いない。
嗚呼・・・
大いなる師・ブッダ
ブッダを慕う気持ちはいよいよ高まる。
私の出家したこの森の寺は、街の寺に比べると、よりブッダの時代に近いと言えるかもしれない。
私の出家したこの森の寺は、街の寺に比べると、よりブッダの時代に近いと言えるかもしれない。
街の寺は街の寺の良さがある。
しかし、原始仏教に惹かれ、瞑想に惹かれ、ブッダに惹かれてタイへ来た私は、このような環境の寺で出家できたことを幸運に思う。
偶然出会った寺ではあったが、出会うべくして出会ったとしか思えない。
苦しみの原因を明らかにし、苦しみを滅する道を実践する。
不必要なものばかりに囲まれた生活を離れ、不必要なものに悩まされていた自分に気づく。
まずは、悩む必要のなかったものより離れることから始める。
それが出家というものなのかもしれない。
ヤシの葉っぱで葺かれた屋根の、壁もないただ柱だけの簡素な建物で出家できた私。
心もより簡素に、そしてよりシンプルにできればどれだけ楽なことであろうか。
私はそのように感じた。
⇒森の寺での生活について
『ある森の寺での生活』
(『私の出家した寺』)
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